煙草と布団と一人の男



目を開けば背中が見えた。大きくて広い男の背中。
先ほどまで、俺の目の前にあったもの。
そこには、最中に俺が引っ掻いてやった傷が右肩から腰の左側まで残っていた。薄く赤く残っている傷は猫にでも掻かれたみたいだ。苛立ちのままに思いっきり引っ掻いてやったのに、もう塞がり始めている。憎たらしい体。

背中には二つの肩甲骨が細く浮き上がっている。あれを翼の名残だとかなんだとかという話をよく聞くが、けれど、彼のそこにあるのははただの骨だけだと、俺はすでに知ってしまっていた。

彼は俺の視線に全く気が付かず、無防備に背中をさらしたままだった。換気扇の音と煙の匂いとシズちゃんが吐く息が聞こえる。彼は狭い台所の換気扇の前でぷかぷかと煙草を吸っているのだろう。先ほどまでの名残を、煙で消してしまうように。

「ねぇ、」

背中に向けて、煎餅蒲団の中から声をかけた。振り返ってみた彼の瞳はこちらを見たが、額には不快感を示す皺がくっきりと出ている。シズちゃんはいつも苦虫を噛み潰した顔をして煙草を吹かす。

「シズちゃんの煙草、全然美味しくなさそうだよねえ」

煙を吐き出すときも気だるげに溜め息でも吐いているようで、まったく美味しそうに見えない。なぜ吸っているのかとは聞いたことはない。

「煙草なんて体に悪いし、ヤニ臭いし。布団も臭いから部屋の中は嫌なんだけれど」

うわ、何か今の自分すごく面倒くさいな、なんてことを白いシーツにくるまれて思う。なんだか頭の悪い女みたいだ。そんなことを言っている自分にちょっとげんなりする。シーツの中なら逆なのに。

「お前、なんかヤった後すげえ女々しいよな」

くしゃりと彼が笑うと嫌そうな様子が微塵も見えなくなる。図星をつかれたので俺はわざと顔をしかめて見せた。そんな俺に少し呆れたように、シズちゃんは小さく笑う。

「何だ、煙草に嫉妬してんのか」
「臭いのが嫌なだけだよ」

シズちゃんからのからかい交じりの指摘に、俺は言い返した。

「でもお前、」

そうして今度はゆっくりと煙を吸う。薄い唇にその細い筒がはさまれている。金属の煙管でも持たせたら似合いそうだ、なんて思う。

「俺が煙草を吸うの、嫌いじゃねぇだろ」

ふぅ、とこちらに向かって吐き出された煙は、酷くヤニ臭い。けれどそれは彼が吐き出したものだったので俺は甘んじてそれを受け止めた。

「まあ、否定はできないね」

やるだけやって寝ることだけが目的なら、こんな面倒な男を抱く必要性もない。むしろこうして寝ているのは、終わった後の煙草と精液の匂いが充満したこの部屋の中に居たいからかもしれない。たゆたう煙と彼の低い声。
煙草を吸う、シズちゃんの姿に嫌悪感を覚えないのは、たぶんこれが、彼が不快であることをあらわにしながら自分を正当化しようとしている姿だからだ。足りないものに見向きもしないでただ満足したいと、甘くもないおしゃぶりを加え続ける子供の様に。そんな時の彼はただの人の形をしていて、なんだかそれが悲しいようで酷く嬉しい。

シズちゃんの部屋にはあまりものが置いてない。殺風景で静かな部屋だった。普段は不快なだけの香りだけを楽しむことが出来る場所。
彼にとっての煙草が、俺にはきっとこの小さな六畳間なのだろうか。

彼はまた黙って煙草を吹かし始めた。俺も黙って寝ることにする。きっと俺がこの部屋にいることを、心の奥で安堵しているのと同じように、彼も煙草を吸わねばならぬ理由があるのだ。そういう不可侵なところには空想はしても決して触らない。そんな距離感を、俺たちは保ち続けていた。そしてどちらも満足しきって足を止めたまま、相手を秘かに窺っている。

目をつむれば暗闇に浮かび上がる、白い背中と赤いひっかき傷。
手に入らない彼にもどかしくて足掻いた爪痕。
あれが酷く痛んでいることばかりを願って、俺は煙草臭い布団にくるまれて、一つ息を吸う。













小説top

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -