クジラの歌 前



池袋は鉛色の空に覆われていた。

沈んだ雲は、ただでさえ狭い都会の空をさらに小さく圧迫している。
臨也の革靴が雑踏を踏む。三月だというのに冷たく暗い風がコートの端を揺らした。臨也は情報の売買のために、駅を抜けて西口をくぐった方向へ向かっていた。
 
あいつに合わなければ良いなぁ、などと心にもないことを想いながら、アイフォンを手馴れた動作で操作して取引相手にメールを送る。それなりに以前から取引を続けていた相手だったのでお互いにビジネスの確証はあるだろうが、信頼はない。まっとうな取引相手ではないために、取引場所を交互に指定して万一のための対策を立てていた。すでにいくつかの指定場所を経由した後だ。

これが最後の場所だろうとメールを見たところで指定されたのが、西口近くのラーメン屋だった。情報屋の臨也でさえ名前に聞き覚えのないそのラーメン屋は、最近できたばかりかそれとも寂れすぎているのか。

ちょうど昼ごろだ。久しぶりにラーメンでもいいかな、なんて適当なことを考えながら流れる人を避けつつ臨也は前に進んでいく。

と、目前に見慣れた影が目に入った。頭の悪そうな、というより実際に鳥頭な金髪と白黒のバーテン服を着た池袋の要注意人物。しかもその肩には『止まれ』の赤い道路標識を担いでいるものだから、どこからどう見ても危険が服を着て歩いているようなものだ。もちろん半径三メートルに近寄ろうとする人など誰もおらず、歩くたびに人が避けて通る様子はまるでモーゼのようで、ひどくシュールだ。 

そんなものが、しかもこちらに向かって歩いてきているのだから、臨也にとってはたまったものではない。普段だったらあの憎らしい怪物に自分の身をわきまえさせるために罵ってでもしてやるところだが、しかし生憎指定の時間ぎりぎりなのである。そしてこの道が最短距離で指定場所に届くので、つまり臨也はこの道を進む以外に方法はない。

まったくツイテない。口の中で小さく舌打ちをする。
よりによってこんな時に出会うなんて。
今日のところはからかうのをあきらめて適当に避けてしまおう、などと思い人影に隠れつつ静雄を警戒しながら忍び足で歩いていく。
頼むから気が付かないでくれとはやる鼓動と共に念じ続けていると、非情なことに顔を上げた静雄と一瞬だが目があった。青い硝子の向こう側からレーザービームの視線が飛び込んだ。 

気付かれた! そう思って後ろに駆け出したが、普段なら背中から聞こえてくるであろう怒声も何も聞こえてこなかった。あるのは人混みの中で急に走り出した自分に対する周りの人の奇異の目だけだ。
確かに目は合わさって気が付かれたはずだ。向けられた視線を臨也ははっきりと思い出した。

咄嗟に体を反転させると、臨也は静雄を追った。
なぜあいつは追ってこないのか。取引などということはすっかり臨也の頭から追いやられていた。平和島静雄は折原臨也を追いかけなければいけない。それなのに、なぜ。なぜ、追いかけて来ない。

臨也は人混みをかき分け、三メートルの壁を破って静雄に近づいた。それでも静雄は臨也を振り返ることなく、無視したまま黙々と歩き続けている。その肩に手をかけるて、やっと静雄は臨也に振り向いた。

その表情には何の怒りの欠片も見えなかった。自分を呼び止めるのは誰だという疑問でしかない。平生の時ならば弟からもらったバーテン服に手をかけた時点でその手の標識が飛んできてもおかしくはない。いや、それどころかこれほどまでに折原臨也が平和島静雄に接近したことなど今までにあっただろうか。少しでも臨也の気配を感じ取れば、コンビニのごみ箱や自販機が飛んできていることがあたりまえだったのに。
深い失望が臨也の胸に浮かんだ。

こんなものを平和島静雄と呼んでいいものか。

「なんだ、ノミ蟲かよ。てめぇ、まだちょっかいかけてくるのか」

独り言のように静雄が小さく吐き捨てた言葉にもやはりいつもの様な激しい怒りを感じることはできなかった。そこにあるのは、本当に虫か何かがまとわりついてきたときの様な鬱陶しさだけだ。

どうしてお前は俺を追いかけない?

そんな胸中の疑問が相手に伝わったのか、静雄は途端に口の端を上げた。雪色の犬歯が唇から覗く。

「だってお前はもうしゃべれねぇじゃねえか。俺は、うるさくねぇ奴は別に嫌いでもなんでもねぇからな」

その微笑みにはっと臨也はとっさに喉に手をかける。

しゃべれない? 俺が? 

「――――! ……――!!」

そんなはずはないと声を出そうとするが、出てくるのは何かを擦ったような呼吸音のみだった。嘘だ。こんなの嘘に決まっている。

混乱する臨也を置いて静雄はそのまま歩き去っていく。

「――――ッ!」

待ってくれ。
引き留める声も臨也の口から出ることはない。声が出せなければ、静雄に何も届かせることすらできないのか。人ごみに埋もれ隠されていくその背中に手を伸ばす。

俺を、置いていくな。ああああああああ――……



「……――ああああああああああっ!」

自らの悲鳴で臨也は目を覚ました。布団を撥ね退けて起き上がる。心臓の音が酷く騒がしい。叫んだせいで息が荒かった。最悪だ。何という夢を見てしまったのだろう。しかし妙なリアリティのある夢だった。池袋のざわめきも、静雄の声も、何もかもが脳裏にくっきりと浮かび上がる。

「あー……」

嫌な予感に突き動かされて、小さく声を出して自分の声が出ることを確認してしまう。
ひとまずただの夢だったのだとそんなことに安心している自分がいて、臨也は溜め息を吐いた。声が出ることを確かめるなんて、これではまるで自分があの喧嘩人形に対してかまってほしい願望でも持っているみたいじゃないか。

普段の起床時間にはまだ早い時間だったが、眠気はすっかり飛んでしまった。臨也はコーヒーでも飲もうとキッチンへ向かう。助手の波江はまだ来るには早すぎるので、広いマンションの一室はどこまでも静かで、それは夢の中の喧噪とは程遠いものだった。足音さえもラグに吸収されてしまう。

冷凍庫から挽かれたコーヒー豆を取り出した。ひんやりとした冷たさが腕を伝った。
あとはもう、コーヒーメーカーに豆と水を入れて、臨也は抽出されるのを待つだけだ。以前に買ってコーヒーポットもネルドリップの器具もそろっていたが、時間をかけて美味しいコーヒーを飲みたい気分ではなかった。今はただ苦いこの思いを、早くどこかへやってしまいたい。それでもなおインスタントに手を出さないのは臨也なりの矜持だろう。

ふと、自身の喉を触ってみる。熱い喉と比べて、指先は冷たい。それが余計に臨也に現実感を持たせる。

あの、下らない夢の中で静雄は臨也に向けて平然と笑顔を向けていた。まるで人間のような微笑みを。この喉がつぶれてしまえば、そんな人間ぶった素振りを自分の前でもするようになるのか。そんなこと思うと臨也の背中に悪寒が走る。人間らしくなるなどと、あの化け物に対しては退化でしかないくせに、気色が悪い。

夢の中で感じたあの恐怖は、静雄の退化への失望なのだ。そう臨也は強引に結論づけた。コーヒーメーカーからマグにコーヒーを注ぐ。香りが部屋中に広がって、臨也の気分もだんだんと落ち着いた。しかし、なぜあんな夢を見てしまったのだろう。分からないままにコーヒーを一口啜って、思いつく。

――分からないなら、試してみればいいじゃないか。

そんな悪魔のささやきにも似たことを。









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