プリムラ・ポリアンサ |
駅の花屋で花を買った。 黄色い花を何本か。 茶色の包装紙をくるくると花に巻きつける店員の顔は無表情で、けれど作業は手馴れている。その様子を臨也は落ち着かない気分で眺めていた。永遠に終わってほしくない。いや、早く終わってほしい。やっぱり断ろうか。なんて考えている内に小さな花束はきれいにまとめられてしまっていた。 「できましたよ」 「……どうも、ありがとう」 言われた金額を支払って、花束を受け取った。包装紙に包まれた花束はひやりと冷たかった。冷蔵庫に冷やされていたからだろう。そっと、つぶさないように臨也はそれを抱えた。 駅の中は絶えず人で埋まっていた。スーツを着て足早に行くビジネスマン、大きなリュックサックを背負ってまっすぐに歩いていく少年、そんな人々に呼び込みをする店員。 そんな雑踏の中、臨也は目的地に向かって無心に歩いていく。何か考えたらこんな馬鹿げたことに正気付いてしまいそうな、そんな不安定さで時折転びそうになる。右足を出したら左足を引いて、それから左足で地面を押して、右、左、右、左。無心に、純粋に、歩くことだけに集中する。 どうせここで引き返せたとしても、再び自分は同じことを繰り返すことが決まっているような恐ろしさを感じてしまっていることに、臨也は気が付かないふりをした。 駅の外は一月の冷えた空気があった。無意識に臨也は寒さに首元のマフラーを引き上げた。 ふと、ごわごわとしたマフラーの感触に違和感を覚える。普段使っているものではなく酷くくたびれたものだった。高校の時に使っていたものだと気が付いてしまって、臨也は舌打ちをした。 チッ、ついてない。 間違えて着てきてしまったらしい。端のあたりはほつれていて、そうして真ん中あたりは引っ張られて伸びてしまっているはずだ、追いかけっこの最中に鬼に捕まってしまった証拠に。 青春の遺物を首に巻きつけて、そして会いたくもないやつの家に向かっている。 そんな状況に臨也は吐き気を覚えた。 賑やかな歓楽街から外れ、しばらく行くと街から忘れ去られた古びた建物が並んでいる場所に来た。そこは昼間だというのに静かだった。いや、昼間だからかもしれないが。電柱の数さえ覚えてしまった道を臨也はまっすぐに歩く。足取りは重い。そして、とある木造二階建ての小さなアパートの前で、足を止める。 二階の一番つきあたり。 窓の柵は遠目から見ても分かるくらいぐにゃりと変形していた。一年前もそうだったと臨也は思い出した。どうやら修理する予定はないらしい。遮光カーテンは固く閉ざされていた。あの部屋の中にはたぶんいないだろう。彼は今、仕事中だから。 さて、どうしたものか。 何も考えずにここまで来てしまったことに少し後悔の念が湧き上がる。 手元の花はまだ萎れてはいない。折れてもいない。彼の部屋の前に悪趣味に備えてきてもいいし、あるいは郵便受けに入れておいてもいい。もしくは、渡さなくてもいい。 去年はチョコレートだった。その前は、煙草をワンカートン。その前はマフラーだった。そして今年は花ときた。 その日、目についたものを買って、そうしてここまでのこのこと運んできてしまう。年々悪化していく症状に奥歯を噛んだ。 花束に目を落とせば、嫌に黄色い花弁が目について、臨也は衝動的にこのまま捨ててしまいたくなった。それまで用意したものは渡す前にすべて捨てた。捨てて、運ばれて、何もかも燃やしてしまっていた。 都合良く、アパートの近くにゴミ捨て場があった。明日が燃えるごみの日だろうが燃えないゴミの日だろうが、とにかくこの温い花束を臨也はどこかにやってしまいたかった。覆いを外そうと、重石の付いた網を手に取る。あせっていた。だから、近づいた気配に気が付かなかった。 「おい、テメェそこで何やってんだ」 「……なんでわざわざ人が一番合いたくない時に限って現れるのかな、君は」 まあいつでも会いたくないけれど。口の中で小さくつぶやく。 振り返ればバーテン服に身を包んだ平和島静雄がいた。 サングラスの向こう側から届く眼光は鋭く臨也をねめつけていたが、皺のよった服や、どことなく気だるげな様子は酷く疲れていることを臨也に思わせた。 昨日、彼は徹夜で取り立てをしていたことを、臨也は記憶の内から引き出した。きっと自分の予定通りに池袋中を駆けずり回ったことだろう。その予定の中では、今日の夜までかかるつもりだったのだが。 殴られるだろうか、それとも蹴られるだろうか。そうしたら自分はどう動くべきだろうか。否応が無しに高鳴る心臓とは逆に、臨也はどこか冷静に次の行動を考えていた。 さっさと逃げ出しても、今の彼なら疲労から見逃してくれるかもしれない。何よりそんなに早くどこかにやってしまいたいのなら、声をかける前に何かが飛んできたはずだ。それなのに何も来なかったことが何よりの証拠だと判断する。 臨也は、静雄に隠れるようにじりじりと右足を引いた。 「なぁ」 猫の鳴き声みたいな声がして、それが一瞬何なのか分からなかった。ひび割れた声だった。池袋を駆け回るときにいつもの罵声も出していたのかもしれない。 「何」 「それ、捨てるんだったらもらってやるよ」 そう言って静雄が指したのは臨也の持っていた黄色い花束だった。こんなものを相手が欲しがる理由が分からなくて、臨也は返事に戸惑う。 「渡したら、見逃してやってもいいぜ」 臨也にとって実に魅力的な取引だ。捨てられるはずだった花を彼は手に入れ、そして自分は安全にここから逃げることが出来る。 なぜだとか、理由だとか、そんなことを彼に求めたところでどうせ些細な気まぐれなのだと、臨也は自分に言い聞かせた。“そんな気分だった”とか、どうせそんな下らない理由で、そうしてあっさりと自分のこのイレギュラーな行為を終わらせてほしかった。 何よりも、臨也は自分の内面に踏み込むことが一番怖かった。 「ほら、くれてやるよ。どうせ花束なんてもらったことも無いんだろう」 臆病者はうそぶいて、静雄に向けて花束を投げつけた。弧を描いてそれは仏頂面の静雄の手中に収まった。 彼のことだから力加減も分からずにすぐに折れてしまうだろうと思った花は、けれど柔らかな包装紙に包まれたままで大きな手のひらに抱かれていた。 小さな花束に静かに目を落として、静雄はこちらを見ることもなく手を振って追い払う仕草をする。気が変わらないうちに目の前からさっさと消えろ、ということらしい。 臨也は目をつむると静雄に背中を向けて走り出した。後ろを振り返りはしなかった。 革靴がアスファルトを蹴って体が跳ねる。上手く走れなくて呼吸が乱れた。早く先ほど見た光景を忘れなければいけないと、そんな事ばかり思っていた。忘れなければ何か恐ろしいことに気が付いてしまいそうだった。 けれど、なぜだか臨也の体は何処までも走っていけそうなくらい軽かった。 小説top |