水槽に帰す 後



「なあ」

空気を震わせた自分の声は思っていたよりかすれていた。

「何?」

「熱帯魚って食えるのか」

唐突な質問に、臨也は静雄の方へ振り向いた。臨也は部屋の中央で何やら書類をまとめている途中だったらしく、最近かけ始めた眼鏡をかけていた。つるりとした硝子面が静雄を捉える。

「食べられるんじゃないの、たぶん。そこにいるのが食べられるか分からないけど」

静雄の目前には水槽があった。これも硝子で出来ており、静雄がその気になれば簡単にこわしてしまえそうな箱の中で、何匹かの小さな熱帯魚が泳いでいた。長い鰭をゆらゆらと揺らめかせて泳いでいる。
その魚の名前など静雄は知る由もない。また、そんな小さな魚など食べる気にもならなかった。先ほどの質問はただの興味からだった。

「へえ……」

静雄はそう相槌を打って、それから黙った。臨也は博識だ。静雄の何気ない疑問に簡単に答えるところをみると、自分との違いがはっきりと分かれていくようだと感じていた。きっと自分と彼との関係が変わってしまったから、こんな当たり前のことにも引っかかるのだろう。

以前は分かりあいたいなどと、同じ空間にいたいなどと思うことなどなかった。臨也だけではなく誰とでもそうだった。それなのに今はこんなにも、分かたれていくことを恐れる自分がいる。

弱いな。静雄は思った。
自分はあまりに弱い。ふとしたきっかけで臨也が正気になり、断ち切られてしまったら自分はもう生きてはいけないだろう。動物園に囲われた動物のように。臨也が調教師だとしたらきっと猛獣を上手く仕込めるに違いない。なぜなら彼に言わせれば自分は人間ではなく化け物の部類に入るらしいので。

極彩色の魚は、相変わらず優雅に水槽の中を漂っていた。臨也が自発的に買い求めたものではなく何かの取引のときにもらったものらしい。高価だから簡単に捨てられなくてね、と愚痴を言っていた姿を思い出す。それでもなんだかんだと水槽や餌などと揃え、もう何か月も魚たちは臨也の自宅に居た。

もしも、自分がこんな醜い形をしておらず、魚だったら。ふと、そんな考えが静雄の頭をよぎる。魚だったら臨也のもとにずっといられるのだろうか。こうして狭い箱の中、えらで呼吸しはくはくと口を開いて彼の指先から落とされる餌を食べて、生きていけるのだろうか。

それが実に荒唐無稽な話だと、静雄自身分かっていることだった。
けれども思わず考えてしまったことを止めることはできなかった。

以前聞いたことを思い出す。人は母親の胎内で魚だったという話だ。話半分に聞いていたので詳しくは覚えていなかったが、羊水の中を泳ぐ魚だったら、まだ、化け物になってしまう前だったら、臨也も自分を捨ててしまうことなどないのかもしれないと思った。

「生まれる前は、俺たちは体の中で魚だったんだよな」

静雄が漏らした言葉は半分以上独り言のようなものだった。ただ、臨也からの同意があればそれでよかった。
けれど答えは違っていた。

「厳密には違うね。魚と成長する過程が途中までは同じっていうことかな」

静雄は振りかえって臨也を見た。臨也は紙類を手に持ったまま、こちらを見ていた。彼はおだやかな笑みを浮かべている。

「魚が生まれてくるルートと、同じところを人も生まれるところで通っているんだ。魚にはなっていないよ。ただ、胎児にエラが出来たり、人間の歯や髪は魚の鱗の起源と同じだったりする。面白いだろう」

「へえ……」

静雄は臨也を見ていられなくて、視線を逸らせた。ただ彼は自分の質問にいつものように答えているだけだとわかっている。わかっていても、まるで臨也が静雄を愛する可能性が否定されてしまったような心持がした。

「じゃあもう、俺は、魚になることはできねえのか」

自嘲する言葉が静雄の口から零れた。囁きに近いそれは、けれど相手の耳まで届いてしまったようで臨也は顔を上げた。視線がぶつかり合っても以前の様な怒りに満ちたあの熱量は、もうそこにない。
唐突に言った自分の発言に、臨也は不思議そうな顔をしている。めったに見ないその表情に静雄は微笑んだ。

「シズちゃん、……」

名前を呼ばれた。けれど、臨也はそれを続けようとはせず、黙ってしまった。形の良い唇はまっすぐに結ばれている。

もしも、自分が魚になれたら、彼に飼ってもらうよりあの唇で食べてもらいたいと、静雄は思った。














小説top

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -