水槽に帰す 前



「なあ」

そう臨也に声をかけた、静雄の声はかすれていた。

「何?」

「熱帯魚って食えるのか」

唐突な質問に、臨也は静雄の方へ振り向いた。静雄は部屋の端に置いてある熱帯魚の入った水槽の前に立っていた。あまり大きくない水槽の中には、何匹かのカラフルな魚がふよふよと泳いでいる。

「食べられるんじゃないの、たぶん。そこにいるのが食べられるか分からないけど」

観賞用の熱帯魚の種類についての知識はあったものの、その毒性まで、臨也は知り得ていなかった。
ただ南国に居ると言うだけで熱帯魚と呼ばれる魚たちのことを考えると、きっと彼等が故郷に居たときには人々にありきたりな魚として食べられているに違いないと思ったからだった。だが、指先ほどの大きさの熱帯魚など、食べても味はしないだろう。

「へえ……」

静雄はそう相槌を打って、それから黙った。
そんな静かでいるときの静雄と居ると臨也はなんだか落ち着かなくなってくる。心地が悪いとでも言うのだろうか。それはあまりに長い間共にした時間は、常に喧噪と隣り合わせだったからかもしれなかった。だから、今、それと真逆のベクトルを行っているから違和感という形で反動が来るのだろう。

臨也は中断していた書類の整理に戻った。あいにく今日は秘書が休みだ。そのために、こういったつまらない雑事も臨也がこなさなければならなかった。静雄との関係性が変化する前と比べて半分近く取引を止めたものの、それでも煩わしさ感じるくらいには情報屋としての仕事はあった。
いつだったか、そういう細々とした仕事を静雄にやってもらおうかと思ったこともあった。けれど彼はてんで使い物にならなかったことを思い出す。そこで臨也は仕事とプライベートを合わせることをあきらめたのだが、あきらめることを覚えたことも、静雄と関わるうちにまた変わった点かもしれなかった。

持ち込まれた茶封筒に入っている紙を、いくつかのファイルへと分けていく。最近では多くの書類が電子化されて管理しやすくなった分、クラッキングなどで狙われることも多く、紙に書かれている媒体を無くすことはまだ出来そうになかった。
こういう面倒な作業が無くなれば作業効率も上がりより早く的確に仕事が出来そうなものなのに。

ふと顔を上げれば、静雄は変わらずに熱帯魚をじっと見ている。上半身には何も身に着けていない。ジーンズだけを履いたその姿は静謐で、一体の彫刻の様だった。細く浮き出た肩甲骨がよく見えた。中心を貫く背骨も見えた。

ああ。小さく臨也は息を吐いた。

あれに触りたいな。

あの肩甲骨を撫で、そうして脊椎の数を一つ一つ確かめてみたい。

それはこんなつまらない書類整理よりももっと楽しそうだと思った。

「生まれる前は、俺たちは体の中で魚だったんだよな」

独り言みたいに彼が漏らした呟きに、臨也の妄想は中断された。魚。それは、きっと胎児の頃を言っているのだろうか。

「厳密には違うね。魚と成長する過程が途中までは同じっていうことかな」

静雄は振りかえって臨也を見た。この話に興味を持ったようだった。珍しいことだと思いつつ、臨也は微笑んで話を続けた。

「魚が生まれてくるルートと、同じところを人も生まれるところで通っているんだ。魚にはなっていないよ。ただ、胎児にエラが出来たり、人間の歯や髪は魚の鱗の起源と同じだったりする。面白いだろう」

「へえ……」

また、気のない相槌を返しただけで、静雄は水槽に視線を戻してしまった。もう会話は終わってしまったらしい。
それを残念に思いながら臨也が手元の資料を読み始めると、今度はさらに小さな呟きが聞こえた。

「じゃあもう、俺は、魚になることはできねえのか」

なぜ彼は唐突に魚になりたいなどと言い出したのだろうと、訝しげに顔を上げれば、静雄もこちらを見つめていた。視線が複雑に絡み合う。静雄は淡い笑みを浮かべていた。彼はいつも無言で感情を中にため込んでいる。彼は悲しいのかもしれないと臨也はその表情をみて思う。でも、何も自分には分からない。怒りを持たない静雄と付き合い始めて、臨也はまだ浅すぎた。

「シズちゃん、……」

しかし続ける言葉も無く、臨也も押し黙った。

もしかしたら、彼と自分は永遠に分かり合えないのだろうか。人と魚が会話もできないように。
臨也は静雄の読み取れない表情にそんな思いを抱いた。














小説top

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -