スピリタス 5 |
分からない真相に苛々が溜まってきた思考を何とかするべく俺はシャワーでも浴びることにした。髪でも洗えばすっきりするだろう。 ふと視界の隅に白い紙屑が落ちていることに気が附く。レシートか何かを財布から落としたのかと、拾って見れば、紙に書かれた四文字が目に飛び込んでくる。 「は?」 『すきだよ』? 本日二度目の間の抜けた声が出た。 なんだこれは。裏返して見れば普通のレシートだった。たしか一昨日にコンビニに行ってきたときのものだ。それがなんでこんな文字とともに落ちているんだ。 その特徴的な丸い字を見ていると頭の隅で引っかかるものがあった。なぜかこの文字を見ていると鬱陶しさがこみあげてくる。どこかで見たことがあるような、ないような、むしろ思い出したくないような。 そんな印象に先ほどの新羅との会話が思い出された。瞬間に手の中で紙屑を握りつぶした。 確かに見覚えがあるはずだ。高校時代にさんざん見せられた、あの忌々しいクソ野郎のものに違いがないのだから。 ノミ蟲が書いたメモがここにあるってことは確かにこの部屋に来たという事で、つまりそれは昨日自分がノミ蟲に負ぶされて運ばれてきたという事が言えるわけで、そうして混乱した頭はいらないところまで考えを及ばしていく。 「最悪だ……」 もともとそれほど酒に弱い方だと思っていたけれども昨日は羽目を外しすぎた。ノミ蟲の前で晒したという醜態がどんなものだったのか覚えていないのは、不幸中の幸い、なのかどうなのか。どちらにしても最低の状況ということに変わらない。 それに、すきだよってなんなんだ。それが一番不可解で不快だった。 ノミ蟲が――折原臨也が書いた言葉で、こんなにも自分を的確に攻撃し、衝撃を与え、混乱に貶めることが出来る言葉は他にない。好きだよ、なんて。自分の感情を自覚してからは、受け取る可能性さえあきらめた言葉なのに。それなのに。 どうせこれも冗談の類、あるいは自分に対する悪質な悪戯だ。 そうとわかっているのに、自分の体は俺を裏切って、握りしめる紙を捨てることが出来ていなかった。こんな紙などさっさと捨ててしまえば楽だ。捨ててしまえれば。だから、捨てなければいけないのに。 確かに握りしめたそれは今頃繊維レベルほどにまで微塵へ化しているはずだったが、自分を裏切り掌の中の薄い感熱紙は辛うじて形を保ったままだった。 そんなことにも、無意識な感情を覆っていた壁をばりばりとはがされて露わにされているみたいだ。あるいは無駄に期待しているようで。 形の歪な四文字がその中に見える。それに酷く動揺する。すきだよ、ってこれは好きっていう漢字を当てはめるのか、いや待て隙だよっていうことで昨日の馬鹿みたいに酔っぱらった姿が隙だらけだっていうことを表してんのか、まだそっちの方が信憑性はあるよな。思考はぐるぐる回る。 これは、酒が見せる夢なんだろと誰でもいいから胸倉を引っ掴んで問いただしたいけれども部屋には俺しかいない。まるでアル中みたいに、手のひらは小刻みに震えていた。 その感情が生まれたのが何時からなのかは知りもしないが、きっと、このまま自分が怪物へ成り果てようとも唯一離れていかない存在が、折原臨也なのだと気がついたときから、もうその変化は始まっていたんだろう。恋にも似た歪な依存心の成れ果てみたいな。 あんなのは碌な奴じゃない。そんなこと自分が一番知っている。けれども、そうして姿を見るたびに揺さぶられる感情は只の嫌悪だったのか、今ではもう分からなくなっていた。 離れたかった。離れてしまいたかった。それなのにいつでも引力でもあるみたいに引っ張られる。今更離れられるほど、この感情は軽くなかった。 相手から向けられることなんてない、一方通行ばかりの自分の想いなど、押し込めて消してしまうことには慣れている。知ってしまってからは無いものだとして扱ってきたその感情を、今更穿りかえされることになるなんて誰が想像できただろう。 それを、知らない振り、見えない振りをずっと続けていられたらよかった。 けれどこんなものを見せられて、黙っていられるほど従順ではないことなど俺自身がよくわかっている。 それくらい自分をコントロールできていたら今頃借金取りの仕事もしてねえだろうしそもそもノミ蟲とも出会ってこんな喧嘩ばかりしてねえんだろうな。 皺のよったそのメモを、俺は伸ばして畳んだ。 どうしようか、なんて考える前に自分の行動は決まってる。うじうじと悩み続けるのは性に合わない。 どんな言葉でも、どんな思いでもいい。 この紙に書いた真意をその張本人に聞きだしたい。 それだけだ。 前 次 小説top |