水葬に期す



※高校生妄想





夏の夜は無風だった。だらりとした静けさが辺りに漂っていた。
粘着質な熱気と湿気が昼の名残を残している。どこか遠くで犬の鳴く声がした。

静雄はプールサイドを見渡した。ひっそりとしたそこには人の気配は無い。当たり前だ、深夜を回っているというのに学校のプールに忍び込むような奇特なものなどいないだろう。
自分以外に誰もいない、そんな一人きりの安心感と微かな寂寥感を確かめる。

ライトなど無いので月明かりだけがおぼろげにプールを照らしていた。曖昧な輪郭のままにプールサイドの白いタイルがぼんやり浮き上がっている。黒い水面が小さく揺れた。
暗闇で水は底知れぬ深い海のようだったが、しかす潮の代わりに濃い塩素の匂いが鼻につく。ああ、この匂いも小学生以来だと、感傷のようなものを静雄は抱いた。
小学生の頃はまだプールに入っていた。入れていた。水泳の授業のだ。あの頃の自分は、幸せだったのだろうか。不幸せだったのだろうか。

水着なんて持ってきていなかった。そもそも家にサイズの合う水着なんてあるのかさえ静雄には覚えがない。もう何年もプールや海にいってなかった。
静雄は裸足の足先を水面につける。水はしっとりと冷えていたが、冷たすぎるほどではない。その冷たさに気をよくした静雄は、制服のままでするりとプールの中へ滑り込んだ。体を沈ませて全身を水につける。カッターシャツも、スラックスのズボンも等しく濡れた。確かに冷たいはずなのに寒さを感じないのは、外が暑いからだろうか。

プールの中に魚などいるはずないが、水を掻いて前に進むと、臍を掠める魚影があるような錯覚を抱いた。広い水槽で泳ぐ孤独な魚。
次第に体温が下がり、水の温度に近くなる。力を抜いて、静雄は水面へ浮き上がった。霞む雲の切れ間から星がいくつか見えていた。

ゆっくりと酷く丁寧に呼吸を繰り返す。そうしなければ、この微妙な均衡は崩れ簡単に水の中へと沈んで行ってしまいそうだった。――いや、水の上だけじゃない。静雄は大地の上でだって、怯えながら息を吸い、そうして吐く。何に恐怖しているのか、具体的な像はなくても明確に分かっていた。

今、プールの中には誰もいない。

静雄を脅かすものは何もない。

その、冷たい安らぎに体を委ねて静雄は目を閉じる。このまま、水に溶けていくことを夢想する。

ゆっくりとゆっくりと、まずはその足の爪が溶けて、それから皮膚が、次に筋肉が、最後は骨の髄まで全部とかされて、この塩素が入ったプールに溶けてしまって、消えてしまって、そうして始めからいなくなってしまうのだという、つまらないことを。

きっと最初からいなければ、もう一度やり直すことができるならば、もっと上手に呼吸をしてみせる。

このまま水に溶けていけたなら――……



「そんなことをしたって、君は死ねはしないよ」

静寂を美しく切り裂いた声に静雄は目を開けた。
口を開いて言葉を探した。けれどきっと何かを言えばこの水面の薄い膜は破れてしまうだろうと思って、何も言わなかった。

「君がいくら願ったって、変わりはしない」

断定の言葉は、まるで静雄を断罪するかのようだった。罪を暴き立てて明るみに曝し、そうしてこの世界に引き留めようとする楔のようだった。それらは呪いの様に体に絡み付く。さらりとした水と対照的に。

静雄は答えない。

ぱしゃんと水の割れる音がして、漣が静雄の元に届いた。波はぐらぐらと揺らしたが、静雄は侵入者に対して何の不平も返さなかった。

「シズちゃん」

されるがままに腕を引かれて、そうして強く抱きしめられる。
相手の熱い体は、冷たい自分とはっきりとした境界線を作っていた。それに静雄はどうしようもない哀しみを覚えた。

「赦さない。君が勝手に消えることなんて、赦さない」

夏の温い風が濡れた頬を撫でる。耳の奥で潮騒が鳴る音を聞いた。生きている。自分も相手も生きてしまっている。こうして抱き留められてしまえば、もう帰ることは叶わない。

静雄は目を閉じる。

きっとまた変わらない日常を、自分たちは繰り返す。





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