スピリタス 3



初めは自分も彼に対して嫌悪感を抱いていたのだ。

彼は自分を見た時から敵意を丸出しにしていた。自分の本質をありありと見抜いたそのことがとても気に入って、自分自身の手からはみ出すように動く彼にいらだちを覚えて、そうしてもっと嫌わせてやろうとした。

化け物だと指摘し、周囲にそのことを広め、そうして彼を孤独にしようと画策したのは確かにその存在を疎ましく思ったからだったはずだ。
そのはずなのにいつの間にかそれが下らない情に移り変わったのはなぜだろう。
今では、優しくすることが出来たらいいのにと思ってしまっているなんて。

この想いがどんなものか知っている。
けれどこんなものに名前を付けたくはなかった。ただその酒気に当てられただけなのだと、ごまかしていたかった。なぜならそれはあまりにも空しいものだったので。

――不毛だ。

酒臭さが充満する狭い六畳一間で、横たわる男を見ている自分はなんてみじめなのだろう。帰ろう。こんなところに居たって無意味だ。

そう思って後ろに手をつくと、かさり、と触れたものがあった。
指先で撫でたそれは乾いた布の感触で。
驚いて横を見たら、彼が起き上がっていた。薄く目を開けてこちらを見ている。目元がうっすらと赤い。酔っている。
シャツの隙間から見える白い鎖骨が、月明かりに照らされていて浮き上がっている。そこに噛みついたらどんな味がするのだろう。動揺しているはずなのに心臓は遠くにいるみたいに静かだった。

彼は何も言わない。ただ見上げているだけ。それなのに酷く煽られた。
何も考えずにゆっくりと顔を寄せる。彼は引かない。自分が目を閉じたのはそれが礼儀だと思ったから。

触れるか触れないか、というところで、俺は目を覚ました。

「え、あ……」夢オチ?

いつの間にか眠っていたらしい。
最悪だ。
最悪の夢見だ。相変わらず、薄暗い部屋に彼はこちらに背を向けて寝転がっていて、そして自分は座り込んだまま動けないでいた。

馬鹿だ、自分は。無意識の中に押し込められていたことをまざまざと見せつけられたようだ。
これじゃ、まるで、自分が、こうしたかった、ような。

ああぁと呻いて頭を抱えた。もう、帰らなければ。本当に何をしでかすか分かったものじゃない。

立ち上がろうと後ろに手をついた。途端に指先にかさりと乾いたものが触れる。

えっ

驚いて手に取ってみればそれは彼が捨て忘れたのか、ただのレシートだった。
強張った体が一瞬の内に緩められる。馬鹿だ。本当に。

レシートをよく見てみるとコンビニでプリンを買った時のもののようだ。相変わらず彼に似合わない趣味に、小さく笑みがこぼれた。
彼は変わらない。寝顔も姿勢も嗜好も。変わってしまったのは自分の方だ。
感熱紙のつるつるとした表面をつまんでいると、思い出す、先ほどの甘い痺れと罪悪感に背中合わせの夢。

ふと、悪戯を思いついた。

この紙の裏にメッセージを残して置いておいたら、この男はどんな顔をするのだろうか。たとえば、――好きだ、という、メッセージを。きっとそういった悪戯に慣れていない男は初心な反応を寄越すだろう。いや、それとも悪戯だと決めつけて怒り出すのか。

これはただの悪戯だと心の中で呟きながら胸ポケットからボールペンを取り出して文字を書く。吐きだしてしまえ。ぶちまけてしまえ。こんな馬鹿げた思いを自分ひとりで抱え込んでいるのはもう限界だ。

「す、き、だ、よ」

たった四文字のことだった。思ったよりも簡単じゃないかと思って、そうして途端に羞恥心が露わになる。なんだか本当に酔っているみたいだ。いや、酔っているのだろう。
何をやっているんだ。自分は。紙に書いてコクハクだなんて。
実際に書いてみるとそれがどれだけ荒唐無稽なことかわかってしまった。そうして、こんな女々しい行為をしている自分に腹が立った。
どうせ、彼が自分の筆跡を分かるはずもないのだ。彼を家に運んできたのもどうせ別の人物だと思うのだろうし、名前でも書こうものなら、すべて読む前に彼の手の内で一瞬のうちに塵屑となってしまう。そんな情景がありありと浮かびあがった。自分だと分からないなんて、そんなのまったく意味がないじゃないか。

憤りのままにレシートをくしゃりと片手で握りつぶして屑籠に向かって放り投げる。けれどもそれは標準が合わずに屑籠から大きく逸れて落ちた。はあとため息をつく。拾いに行くのも億劫だ。

もういいか。そんな風に思った。
もう、全部、あきらめて、池袋からも新宿からも全部取っ払ってしまおうか。
いや、それこそ馬鹿らしいこと甚だしいじゃないか、天下の情報屋様が天敵のためにすごすご逃げ出すことなど。けれどこのまま行けば彼と否応がなしに関わり合いになる。

酔った脳みそは、思考能力を半減させて自己嫌悪のループにはまる。区切りのつかない愚考を断ち切るように俺は重たい腰を上げた。やはり、ここに居たら、ダメだ。この部屋には彼の気配が匂いとして染みついていた。それが、どうしようもなく自分を引き留める。

覚束ない足取りで玄関までたどり着いて外に出た。冷たい風が吹いて、現実をまざまざと見せつける。ふわりと背後から生ぬるく酒臭い空気が漂ってきた。

そして、俺は後ろを振り返らずにドアを閉めた。





 








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