ヘッドフォンの向こう側 |
「遠くに行きてぇ」 低くかすれた声が耳元で囁くように聞こえてきたので俺は驚いた。つけていたヘッドフォンを手のひらで押さえてそれから何か続けて彼が話すのを待っていたけれど、ガタガタいう機械音と時折小さく響く溜息にも似た吐息くらいしかまた聞こえなくなる。この長い息は換気扇の下でたばこを吸っているからに違いないのだろう。 強張っていた肩をほぐした。なにをやってんだか、まったく。声に出さずに自分で自分に突っ込みを入れる。たった一言でこんなに動揺するなんて。 彼は一人でいるときはめったに話すことはない。 もちろん一人暮らしであることもそのことに起因しているんだろうけれど、それでも、家にいるときはカサコソという物音くらいしか聞こえてこないのだからその盗聴はひどくつまらないものだった。今までは。 遠くに行きたい? それが物理的な距離なのかそれとも精神的な距離なのかは愚問なのだろう。シズちゃんは池袋から出ていくことはできない。出ていけるほどの勇気を持ってはいないのだから。だからこそ、遠くというあいまいな表現に帰着する結論。零れた本音。彼は自分のことを誰も知らないところにまで行きたいんだろうか。俺のいない世界に行きたいんだろうか。 たとえばの話、世界がバターのように容易に切り取られて、そうして、俺と彼の二人だけの世界になっていたら、それは遠くだと言えるのかなあと考えてみたりする。いや、そうなると俺がいるから駄目だ。じゃあ、彼だけの世界に逃げ出すなんてこと、俺は許せない。許さない。 遠くへ行きたい。そう言う彼の独り言は俺のヘッドフォンの向こう側に落ちている。そうして、こちら側に落ちてくることなどありはしないのだろうけれど。 馬鹿だなあと、自嘲することがある。 情報収集だと銘打って彼の部屋に盗聴器まで仕掛けるなんてグレーどころか真っ黒だとわかっているくせに知らないふりをして、そうしてこんな下らなことばかり考え続けて、知らないふりをしている。 向こう側に何か言い出す勇気を持てないのは俺の方じゃないか。そのくせ一人にはしてほしくないんだから、馬鹿馬鹿しい。 ふぅと彼の吐息が聞こえる。 匂わないはずのそれを嗅いだ気がして、俺は静かに目を閉じる。 小説top |