パキラの枝と葉と |
※ルームシェアしてる ※大学生妄想 ケトルの細い管から、透明な水が落ちていく。 ぼんやりとした、惚けた顔でそれを見ながらシズちゃんは苗に水をやっていた。 如雨露でも買えばいいのにといつも思うが本人は別に水をやれればケトルだろうがコップだろうが構わないらしい。 今日も、灰色のスウェットに猫背の姿勢で、そうして金色の髪はくしゃくしゃな寝癖がついたまま、忌々しい植木に少しだけ水を振りかける。あまり水をやり過ぎては駄目な種類なのだという。そんなことを、朝刊をめくりながら目の端に捉えていた。 最後の一滴まで出し終わると、シズちゃんはぺたぺた歩いてキッチンへ向かう。そこで、大きなあくびを一つ。半分閉じられた瞳と緩みきった表情。 朝に弱いのかいつもそんな感じで、どこかテンポがずれている。まさか自販機を投げ飛ばすような彼がそんなにぼうっとしている事なんて、まったくもって想像つかない。 最初に見た時は驚いたものだけれど、ルームシェアを始めてしばらくたった今ではありきたりな光景だ。 それでも、俺の視線が無意識にシズちゃんを追ってしまうのはこの時だけが彼の姿をはっきり見られるからだろうか。夜になると大抵遅くなっていて彼はもう眠っているし、そして大学の構内で会う事なんてめったにない。 先ほどシズちゃんが水をやっていた苗木に目をやる。窓辺に置かれたそれは、彼が唯一共同スペースに置きたいと言ったものだった。なんでも入学祝に弟から貰ったものらしい。観葉植物をあげる弟も弟だが、それを喜んで受け取る兄も兄だと思う。 中南米原産のそれは、白い鉢植えから真っすぐに枝を伸ばして、葉を茂らせている。葉に零れた水が太陽に反射して、控え目な輝きを見せた。窓から入ってきた風で静かに揺れる。 そんな植物を俺は苦々しく思いながら見ていた。こんな鉢植えなど窓の外から遠くに放りなげてやりたいという衝動に日に一度は駆られるけれど押し殺す。馬鹿馬鹿しい。あんな草に嫉妬している自分が馬鹿馬鹿しくて、まるで笑えない。 はあ。下らない思考を空気に逃がすために大きく息を吐き出した。彼と暮らし始めてからこんなに自分の心は狭いものだったのかと驚かされている。 「……コーヒー」 掠れた声とともに、目前に白いマグが差しだされる。香りが鼻先をかすめた。 「ありがと」 新聞をテーブルに置いて受け取る。温かい。またシズちゃんはまたぺたぺたと歩いて対面の黒いソファに座った。晩ご飯は俺だから、シズちゃんは朝ご飯ねという決まりを律儀に守る彼はだるそうに動きながらしかし毎日こうしてコーヒーを入れ、弁当を作ってくれる。 飲み会やらなんやらで、どうせ晩御飯なんて食べる機会なんか潰れることも多いのに、気にした風もない。あるいは気がついていないのだろうか。 丁度よくトースターから、ベルの音とともに二枚のパンが飛び出る。その一枚を皿の上に取り出して、シズちゃんが持ってきたバターを塗った。目前の彼は、そのうえべたべたといちごジャムを塗りたくって、甘い香りを辺りにまき散らしている。池袋最強だとか、喧嘩人形だとか謳われる姿にまったく似合わないと見るたびに思うけれども、口には出さない。 朝の彼はテンションも低いと同時に、沸点も恐ろしく低く、以前俺が日本の将来を憂いていることを少し語っただけで、何の予告も予備動作もなくバターナイフを投げつけられた。 あれは俺でなかったら確実に死んでいるか、よくても大怪我を負うレベルだったと思うが、少なくともナイフ一本と壁のへこみだけで被害が済むくらいには、俺はシズちゃんの中で認められているという自負はあった。 それからは毎朝の食事には俺はあまり話さないように気をつけていた。テレビもつけないから部屋の中はとても静かだ。不機嫌な彼をからかうのもいいけれど、これ以上壁にフォークやらスプーンやらが突き刺さるのは遠慮したい。 もちろん彼に話したい事なんてそれこそ日本の将来なんかどうでもよくなるくらいにたくさんある。でも、シズちゃんが目の前に居てくれるだけで満足してしまうのだから俺はとっくに毒されているのだろう。 シズちゃんは気の済むまでジャムを塗れたのか、赤く色づいた食パンをしゃくしゃくと齧っている。その様子にげっ歯類の姿が自然に重なった。少々大きすぎる面はあるけれど。 「そうだ、今日の晩御飯何食べたい?」 四月の終わりだというのに二人とも、飲み会や新歓の予定もない。珍しい事だ。 人づきあいが苦手なシズちゃんにはあまりそういう事は無いけれども、顔の広い俺にとってはめったにない機会で、たまには彼の好きなものでも作ってあげようと思って尋ねてみたのだった。 その言葉を聞いて、シズちゃんはパンを齧るのをやめてじっと一点を見つめ始めた。思っていた以上に真剣に考えているらしい。何度か瞬きを繰り返す。 彼には一生懸命考えているときに瞬きが多くなる癖があった。男にしては長い睫毛が上下する。それに触ってみたいといつも思うけれど、今のところその願いは叶っていない。 そうして、俺がパンを食べ終わる頃になってやっと、小さくつぶやいた。 「……オムライス」 それだけ考えて結局のところ堂々巡りを果たしたようだ。まあ、子供舌なシズちゃんの好みなんてある程度分かってしまうけれど。 「ん、了解」 それでも、パンを齧る彼の姿が先ほどより嬉しげに見えるのは、自分の願望だろうか。 今日は美味しいご飯をたくさん作って、甘やかせてやろうと思って、それからまたあの鉢植えに目をやった。 それは相変わらずの緑色で、葉を茂らせていて、けれど今なら少しくらいは存在くらい認めてやってもいいかもしれないなんて思えたり出来るのは、多分、彼のお陰なのだろう。 下らない嫉妬心とか、独占欲とか。 まあ、そんなものは君の前なら霞んでしまうよ。 小説top |