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臨也は趣味と仕事との合間の空白を見つけては、静雄の所へ来るようになっていた。最初は一日おきだったものが、ゆっくりと増えていき、時には何時間も、ベッドの隣の木椅子に座っていることが多くなった。

寝首を掻いてやろうと、右手にナイフを持ったことも幾度となくあった。けれどそのナイフの無機質な冷たさを手のひらに感じるたびに、そうして、指先で掠め取った静雄の頬の暖かさを思い出すたびに、なぜかそんな薄っぺらな決意はどこかへ消えて行ってしまう。

死んでしまえばいいのにと、何度も願ったはずなのに。

寝ている彼は、ただ、息をしているだけで、他はもう、死んでいるみたいだ。

あるいは、消極的な自殺みたいで。



「不思議な事にね、静雄は意識が無い以外、至って健康的なんだ」

こんなに寝ているのに、他から栄養を摂取していないのに、まるで変化がないだろう。いつだったか新羅がそんな風に言っていたことを思い出す。

「まるで、×××××みたいだと思わないかい」

なんだいそれ、笑えない冗談だよ、と返事をしたら、案外魔法にかかっているのかもしれないと、真剣な声が返ってきて臨也は困惑した。確かに、世界には異常な事などあふれているのだろうし、そうしてその一端に自分も関わっているのだけれど。



眠り続ける。

健康的に、平和的に、眠り続ける。

案外、この世界を彼は求めていたのかもしれないなんて思って、そんなことを思った自分が嫌になる。いつから自分はこんな風になってしまっていたのだろう。
淋しいとか思うようになるなんて。

彼の平和を叩いて、壊して、切り刻んできたのは、自分じゃあないか。

でも、どうしてそうしていたのか、その理由が、もう、思い出せない。

時間の止まった部屋に取り残されたあの日の感情が、鮮やかに蘇ってきた。

大嫌い。大嫌いだよ、こんなシズちゃんの方がもっと嫌いだ。だから、もう、いいかげん起きてよ。小さく、誰にも聞こえないほど小さく臨也はつぶやいた。





なぜ、自分は淋しいなどと思っているのだろう。

カッペリーニを鍋の中に放り込んで、臨也は考えた。
春の日差しには、もう、夏の匂いが混じり始めていて、今日もそんなふうに暖かすぎる日だった。季節が早いけれど冷製パスタが食べたいと思い立ち、そうして今、ふつふつと泡立つ鍋の前に臨也は立っていた。

後は、カッペリーニが茹であがるだけだとなった時、臨也はそんなことを思い浮かんだ。
今ではあんなに混乱していたことが、まるで遠い昔の事だったかのように、冷静に分析することが出来るようになっていた。もしかしたらそれも、何かの思い違いであるかもしれないが。

トングでゆっくり鍋をかきまぜながら思う。どうして、淋しいなどと思っているのだろう。

自分は彼の事が嫌いで、彼も自分の事が嫌いで、

だからお互いにお互いの存在を無くそうと思っていて、

彼は自販機を投げ、

自分はナイフを投げ、

そうして喧嘩のような、戦争のような、

下らない事ばかりを繰り返していて、

繰り返し続けていて、

でも、――彼は、突然、そんなことを止めるのだと言ったのだ。

いつかは終わるのだろうと思っていた。
けれど、こんな終わり方など考えたこともなかった。静かな声と、悲しげな顔。それに背を向けた自分。それから、何かから逃げるように眠る、彼の姿。

淋しいというよりは、足りない違和感だろう。あれは、あの喧嘩はまるで日常のようだった。いつもどうしたら彼が死んでくれるのだろうと考えてみたりしていて、でも今は、喧嘩をしなくなった彼が眠る部屋に行くことが、日常になりつつある。

そんな風に言いきかせてみたところで、胸に開いていると気がついたものは埋まらず。

この喪失感はどこから来るのだろうと、思ってみるのだけれど、やはり、怖くてそこから深く踏み込むことを臨也に躊躇わせた。

何故。

何故、なぜ、どうして、俺は、彼は、なぜ……?

ハッと、臨也は電子音が鳴り響いていることに気がついた。

そうだ、今、自分はカッペリーニを茹でている。

急いで準備していたザルにあげて、すぐに氷水で冷やした。その冷たさが臨也に現実を取り戻させる。水気を切ってトマトやオリーブオイルなどと和えれば酸味を含んだ芳醇な香りが一面に立ち込めた。

トマトの赤は、鮮やかに臨也の視界をさらって、そうしてやはり、血液のあのどろりとした粘液とは違っていた。

白い皿に盛り付けると、ダイニングにまで行くのが億劫に思えてキッチンで一口食べる。やはりゆで過ぎてしまって少し水っぽい。食べられないことは無いけれど、店でこんなものを出されたら自分は二度とその店には立ち寄らないだろうなと思った。

じゃあ、それでは静雄にはもう一度喧嘩をする価値があるのだろうか、とか、考えてみたりして。

無意識的に価値があると思っているから淋しいなどと思っているのだろう。どんな価値なのか。そうしてそれは喪失感に見合うものなのか。

――でも、そんなことより今は。

くるくると、フォークにパスタを巻きつける。


――今は、シズちゃんに起きて欲しい。


思考はそのことにばかり帰着している。





暖かさを折重ねるようにして、季節は時間とともに流れて行く。

君の好きな桜は全部散ってしまったよ。今はもう、葉桜だ。だけど、まだ、八重桜は咲いている。起きてよ。早く起きないと、八重桜も散ってしまう。

近くに美味しいケーキを出すお店が出来たんだ。
今は苺のお菓子を出していてね。苺の旬が過ぎてしまったら、来年まで食べられなくなるね。でも、他のお菓子も美味しいから、君も気にいると思うんだ。
だから、起きて、行ってみなよ。


――小さな言葉は白い部屋の中に沈澱して、沈澱して、よどんだ空気は君の口から君の中に入り込んで、体中に広がって、そうして、君が俺のせいで、俺のために、起き上ってくれたらいいのに。





23日目の今日も臨也は静雄の所へ来た。

新羅もセルティも、そんな臨也を見ても何も言わなかった。ただ、玄関を開けて静雄の居る部屋に招き入れた。音を出すことを怖がるように、臨也は静かにその部屋に入り込んでそうして、また静かに椅子の上に座った。

変わらずに眠り続けている静雄を、臨也は見ていた。
深い眠りに、ずっとこのままの状態であるような錯覚を抱かせる。この白いベッドの上、彼は朽ちることも老いることもなく、ただ、横たわったままで、世界の終わりまで眠り続ける。そんなあてのない幻想を思い浮かべた。

金色の髪は、少し伸びて、元の黒い色を覗かせていた。これでまたもう一つ、彼が起きなければいけない理由を見つけたと臨也は思った。髪をこのままにしていたら、プリンになってしまうだろう。

そうっと手を伸ばして、静雄の輪郭に触れる。小さな骨格。堅い骨の感触を指で感じた。血液の流れる強さを感じた。
すらりと伸びた鼻を触る。これをつまんだら息苦しさで君は起き上がるのかなと笑った。滑らかな肌は抵抗することなく臨也の手の侵入を受け入れた。

薄く柔いまぶた。この下の薄茶色の目で君は俺をいつも睨みつけていた。額には深い皺を寄せて、とても不機嫌そうに。唇からは、罵倒の言葉ばかりで、まあ、俺が悪いのだろうけど、でも、今は、どんな言葉でも、君の声が聞きたい。

聞きたいよ。


「君に言わなければいけないことがあるんだ」

ゆるやかに微笑んで、臨也は言った。

静雄は目を覚まさない。

――だから、今なら、言える気がした。


「俺は、君とまた、喧嘩をしたいんだ。やめたくないんだ。だって、それくらいしか、俺達が繋がる方法が見つからないんだ。淋しいって気がついたよ。君に死んでほしかったのに、なんでこんな風に思うんだろうね。馬鹿みたいに、ずっとそう思っているんだ」


ねえ、だから、


「起きて、シズちゃん」


そうしてゆっくり、その唇に、臨也は触れるだけのキスを落とす。






fin





title by joy










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