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「もう、お前とは喧嘩したくねえ」 ぷかぷかと煙草の煙を吐き出しながら、何でもないかのように静雄は言った。建物と建物の間の細い隙間に出来た狭い空間の中で、臨也と静雄は対峙していた。騒がしい声が辺りから聞こえているけれど、彼の声ははっきりとよく聞こえた。 雑多な匂いに混じって煙草の匂いが臨也の元に届いて、それは克明に静雄が目の前に居ることを示していた。 「はあ? 何言ってんの、シズちゃんついに脳まで筋肉になったんじゃない」 いつものようにそんな挑発的な言葉をニヒルな笑みを浮かべて言えば、けれど静雄はいつものように、うるせぇ黙れ死ねと殴りかかることなくまた、一つ大きく煙を吐き出しただけだった。 「てめえの同意はいい。俺は、もう、お前に関わらねえ。池袋でやりてえことがあったら何でも勝手にやれよ」 そうして、まだ長い煙草を無理やりに携帯灰皿の中に押し込めると足早に静雄は立ち去ろうとした。臨也はとっさにその腕をつかんだ。 「待ってよ。なんで、急に、そんな、ことを、」 青いサングラス越しの目線はよくわからなかった。けれど表情は限りなくフラットでそこに怒りの色は見えなかった。 違う。そんな風に叫びたくなる。違う、君が俺に見せる顔はそれじゃあないだろう。 沈黙の中、静雄は口を開いた。 「手、離せよ」 「……自分で、振りほどけば良いだろ」 静雄の言葉は残酷に臨也をえぐり取っていく。何故。その疑問符ばかりが積み重なってその息苦しさに臨也は逃げ出したくなった。けれど腕を離したら目の前の彼は知らないところまで行ってしまうように感じられて、どうしても、離せられない。 「お前に怒りをぶつけねえ俺なんて、興味の外だろ」 静かに言うその言葉は、彼にはあまりにも似合わない響きだった。 「もともとシズちゃんなんかに興味なんてないよ」 胸から絞り出すように返事をした。 「なら、いい加減手を、」 「君が、……――君が、そんな風になったって、俺は君の事が大嫌いだ。まったく理解できない。気色悪い。理解したくもないよ。早く死んでしまえ。勝手に野垂れ死ねばいい!」 そして、 臨也は逃げ出したのだ。 静雄から。 そこで、臨也は無理やりに目を覚ます。荒い息が漏れた。なんて夢見の悪い。時計を見れば、まだ、眠りについて二時間も経っていなかった。 黒いシーツに埋もれながら、臨也は額を押さえた。頭痛が続いているのは寝不足のためだろう。彼が眠る代わりに自分は起き続けている、なんて下らない事を思い浮かべてみたりするのも、頭が上手く働いていないからだ。 つい6日前、いや、日をまたいだ今となっては7日前の事か。記憶にあるそのままで、映し出されたそれは苛立ちしか臨也に与えなかった。静雄は常に、臨也の思考範囲外にいる。そんなことは知っていたはずなのに、それなのに、なぜ、あんな、事を。 それだけではなかった。それから、次の日には静雄は深すぎる眠りに落ちて、そうして臨也を緩やかに苦しめている。何が原因なのか。断定はできなくても憶測なら誰にでもできる。臨也には、あの会話がきっかけだとしか思えなかった。 池袋の喧嘩人形とまで呼ばれ、際限無き暴力を振るっているその内面がどのようなものであるのか臨也には知れないことだった。けれど、そんなことで眠り続けるものなのだろうか。分からない。 はぁ、と息を吐き出した。あれから何度か部屋に行った。彼の顔を見れば、何かが自分の中で整理されるのだと思っていた。けれどそれは錯覚で、ただ印象を深くしただけだった。 今の無表情に眠る顔と、最後の感情をむき出しにした顔と。 あの場から立ち去る最後に見た彼の顔は酷く苦しげで、そうして、今にも泣きだしそうだった。 ――なぜ、あんなことを言って、そしてあんな顔を、見せた。 いや、違う。この時が訪れることをずっと恐怖していたことを臨也は明確に思い出した。そうだ、彼の許容範囲が自身の所まで及ぶことを臨也は恐れていた。 そうして、戦争が終わることを。 「大っ嫌いだよ、……」 ベッドの上で、また、溜息を吐いた。 自分の心理も、彼の感情も、分からないばかりだ。 雑踏の中へ足を踏み出す。アスファルトを踏む感触をはっきりと感じた。 池袋は、もう自販機は飛ばなくなって、そうして臨也にはもう安心して闊歩できる場になってしまった。 いろいろな人。いろいろな色。いろいろな音。混じり合って一つの空間をなしている。そこに不快感は抱かない。けれど何かが足りないような違和感を抱いてしまう。 自分は、どうしてここにきてしまったのか。趣味の延長線上にあったはずの仕事にも熱が入らず、全部飽きてしまったかのようだ。 一人、歩く。 目的地を見失って。 歩く。 人ごみをするりと歩きながら、その足は自然と一つの所へ向かった。覚えたての道と、見慣れないアパートの前に来てしまって、どうしようもない感情に襲われた。ためらう思考を置き去りにするように足はゆっくりと錆びた階段を上り一つの扉の前で止まる。 何かが変わるのだと思ってここまで来てそうしてまた、分からなくなって。 一つ深呼吸して、ドアノブを回した。軋んだ音を立ててしかし強く抵抗することなく扉は開いてしまった。 埃と熱のこもった匂いがして、それがあんまりにも彼の印象とかけ離れていたから、また、戸惑う。無味無臭のようなあるいは苦いような、まだ若い匂いが彼の辺りには漂っていた。けれどそこにはただ沈黙と停滞した空気が溜まっている。 そろりと入り込んだ。後ろ手に静かに鍵をかける。散らばった広告や、あるいは衣服などが、彼がここに住んでいた事を示していた。布団は中央に鎮座して、乱れたままのシーツが、余計に、彼の喪失を暗示しているようだ。 来るのではなかった。 唾を吐きたくなる。なんで、どうして、自分はこんなところにいるんだろう。最近はそんな後悔ばかりが胸の奥に積み重なっていく。これもすべて彼のせいだ。 ふと、青い光が反射して、臨也は目をそばだたせた。 彼のトレードマークとも言えるサングラスが、布団の近くに置いてあって、それがカーテンの隙間から入り込んだ光を反射したようだ。 近づいておもむろにそれを手に取る。青い硝子と細い針金でできたそれは、単体であるとまったく脆く見えて彼とはまったく違って見えた。気まぐれに耳の上にかけてみる。 青く色づいた世界。静雄がいつも見ている世界。 その中で、黒色は何もかも吸収して黒いままで。 もしかしたら、自分のこの感情は淋しさなのだろうか。 臨也はふと、そう思った。 前 次 小説top |