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「あなた、最近寝ているの」 書類の整理をしながら波江が聞いた。 「それ、右上から三番目の棚の五枚目の紙に書いてある宛名に送っておいて」 まるで答になっていないことを臨也は返した。カタカタカタとキーボードを打っては、仕事しているふり。楽しんでいるふり。生きているふり。誰に対して装っているのだろうと思って自分に対してだろうと気がついた。 溜息。 「平和島静雄が居なくなったからでしょう」 テキパキと先ほど指示したことを行いながら、波江がまた尋ねた。臨也は波江に静雄が眠っているだけだと言っていなかった。本当の事なんて、あまり価値が無い事を臨也は知っていた。 すぶり。確信をついた指摘は、心臓を直撃する。 「酷い顔よ」 いい加減、眠ったら。と、温かみのまるでない声で波江は続けた。 「君も優しいときがあるんだね」皮肉をこめて返したら、「私の仕事が増えるのが嫌だもの」とそっけなく返される。可愛げのない女。可愛げなど初めから求めていなかったけれど。 「じゃあ、もう、仕事はいいよ」 今日はこれでおしまい。そう言って、臨也はパソコンの電源を切った。あらそうなの。またどうでもいいみたいに返事をするので給料でも下げてやろうかと奴当たりのように思う。吹き抜けの高い天井にヒールに音が響いた。波江はさっさと出ていった。 椅子を反転させて、街を見下ろす。黒い椅子は優しく臨也の背中を受け止めた。 ざわめきと共に人がまるで何かに引かれるように流れていく。淀みなく歩いていく様は川の流れを思い起こさせた。それらは何にも引っかかることなく映像として処理されていく。情報を得ることもできず、想像を膨らますこともできず、ただ、普通に眺めることしかできない。 一人になった部屋はとても静かで、それが否応なくあの時を思い起こさせて、嫌になる。 彼のあんな顔を見たのは初めてだった。 ――あんな、裏切られた、みたいな、顔は。 つい四日前の事を臨也は思い出す。それが、彼が眠っている原因なのだろうか。考えたところで、答えを確かめる術もない。 まぶたを閉じた。疲れているのだ、自分は。それを自覚しているにもかかわらず眠りは訪れなくて、まぶたの裏に、静雄の姿が鮮やかに瞬いている。あの日から、いつもそうだ。彼は眠っていても邪魔をする。 溜息をついて、臨也は黒いコートを手に取った。 もう一度、あの姿を見てきたこところで何ら支障はないだろう。 「やあ、シズちゃんはまだ寝ているのかな?」 はあと重たい溜息を新羅は吐き出した。 「何の用だい、」 「シズちゃんの寝顔を拝見しようと思ってね」 「生憎、私はこのマンションから立ち退く予定は無いんだ」 そうしてすぐにドアを閉めようとしたので、臨也は素早くドアの隙間に足を挟みこんだ。新羅は唇を釣り上げた皮肉な笑みを浮かべて、臨也を見た。それに、臨也も笑みを返す。 「何もこれから喧嘩なんかするわけないだろ。どうせ彼は眠っているんだから」 言っておくけれど、俺は部屋に入れてくれるまで立ち退かないよ。最後にそう付け加えれば、根負けしたのか新羅の中で合理的な判断を下したのか、あっさりと中へ通した。 勝手知ったる様子で、臨也は玄関に一番近いところにある扉をあける。そこが、ベッドの上で経過を診なければならない時に使われる部屋だった。白い部屋には病院のような簡素なベッドが置いてあった。今は、一人分だけシーツが膨らんでいる。 臨也はゆっくりとベッドに近づいた。予想通り、静雄が穏やかな寝息を立てていた。 「……静雄は何をしても、起きなかったよ。揺り動かしても、騒がしい音をたてても、痛めつけても、何をしてもね」 ドアの近くで新羅が、臨也に向けて話しかける。静かで淡々とした様子はまるで理性的で、傍観者のようだった。 臨也はそんな新羅の言葉に対して、何も言わず、ただ、近くにある木の椅子を動かしてそこに座った。そんな様子の臨也を見て、新羅は無言でドアを閉めて立ち去っていった。 白い小部屋には臨也と静雄だけがいた。つんとした、消毒液の匂いがした。静けさのなかで、繰り返させる呼吸音が耳元で響いているような錯覚を起こす。 静雄は眠り続けていた。隣に天敵、あるいは仇敵がいるのにもかかわらず、穏やかな寝顔を晒し続けていた。そうして、それを臨也は見ていた。顔を見ていればたった四日前の出来事がより克明に浮き上がってくる。『もう、お前と喧嘩をしたくねえ』それは、ついさっき言われた言葉のように胸を打った。 「どうして、君はあんな言葉を言ったんだ」 独り言のような口調で、臨也は静雄に話しかけた。「分からない。分からないんだ」 「だって俺たちはそれ以外の関係性なんて端から切り離したところにいたじゃあないか。それなのに、今更、無理だと思ったんだ。――でも、君はそうやって、眠っているままで、」 ずるいよ……。今にも消え入りそうな声だった。彼はずるくて、酷い。その答えを自分に託したまま、一人で遠くに逃げてしまった。 大嫌いだった彼は、けれど眠っている。死んでしまえばいいと思っていた彼はいつだって臨也の予想を超えたところにいた。 静雄の顔にかかっていた髪の毛を、臨也はさらりと払いのけた。こんなことは初めてであったのに、酷く慣れた手つきのように自分でも思えて困惑する。あるいは、指先を掠めていった温かさに、戸惑う。 どうしたらいいんだろうね、俺は。 胸中で語られた言葉に返すものはいなかった。臨也は一人、現実の世界に取り残されてしまっていた。 「君は、静雄がこんな状態になった理由を知っているんだろう」 断定的な口調で新羅は尋ねた。ことりと小さな音を立てて、臨也の前にコーヒーが置かれる。黒々とした水面に、歪んだ顔が反射した。 「……憶測だけどね、」 曖昧な答えを返したのは、自分でも確信が持てなかったからだ。そんなことで、静雄が眠り続けるのかなんて、一番否定したいのは自分だ。 新羅は臨也の前のソファに座った。 「それを僕は聞こうとはしないよ。君達二人の問題に、部外者が関わってはいけない」 そうして持っていたコーヒーを一口すする。 その一歩離れたかのような口調を疎ましく感じていた時もあったけれど、今はそれがありがたいと臨也は思った。だってこんなことを新羅に言ってもどうしようもない事など臨也は知っていた。 「悪いね」 「臨也が俺に謝るなんて、気味が悪いから止してくれ」 大げさに肩をすくめた新羅の様子に、臨也はふうと息を吐いてまぶたを閉じる。少し肩の荷が下りた感触を受けたが、多分これも錯覚でしかないのだろう。その証拠に、やはりまぶたの裏には彼の姿が写りこんでいる。 「また、来るよ」 どうしてそんな言葉がするりと口から吐き出されたのか。 けれど新羅はその一言に微笑みを浮かべた。 前 次 小説top |