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平和島静雄が仕事に来ていない、という噂が臨也の耳に飛び込んできたのは、春の盛りの頃だった。 無断欠勤を二日も繰り返していて、なおかつ、連絡も付いていない。それは臨也にとって驚くべき情報だった。見た目からは想像もつかないが、細かなところで彼は繊細で、休むのだとしても律儀に連絡をするような性分であることを臨也はよく知っていた。 それなのに、無断欠勤でなおかつ連絡もつかないとは。 にわかには信じられず、臨也は池袋へ足を向けた。 そして、そこで目の下に薄く隈を作り疲れた様子で一人たたずむ彼の上司を見つけて、あの噂は本当なのだと理解した。 それでも、まさか、という思いが胸の内にはあった。まさかあの喧嘩人形が病気などするはずもないし、それに怪我をするはずもない。だいたいそんなもので寝転がらせることができるのならば、とっくの昔に自分にできているはずだ。 まさか――……。 自然と次に向かうのは、彼の住処となるあのボロアパートだった。今にも板が抜けそうな階段を上って二階の隅の部屋に行く。 情報は持っていたけれど今まで一度もここに足を運んだことは無かった。何故だろうと、ふと、疑問に思うが、今はそれどころではないことを思い出す。 慎重にそのドアノブを回してゆっくりと引いたら、簡単に扉は開けてしまった。あの喧嘩人形は鍵をしないのかとあきれたが、その存在自体が一種の番犬の様なものだから安全と言えば安全なのか。 と、薄いドアの隙間から、人の声が聞こえた。 静雄が居るのかと驚きのまま扉を引く。微かに埃っぽい匂いがした。 「やあ、臨也。遅かったね」 小さな部屋は簡単に全体を見渡せた。 その真ん中に新羅とセルティがいた。新羅は静雄のそばに座りこんで、顔を見ている様子だ。 そして臨也は部屋の中央に横たわる彼に気がついた。 白いシーツに包まった静雄は部屋に他人が居るというのに、まるで死んでいるかのように、起き上がらない。 「……シズちゃんに、何かした?」 玄関で立ち止まったまま臨也は尋ねた。思ったより低い声が出る。不自然に脈拍が高くなっている事に気がついたが、なんでもないように笑みを浮かべた。 『いや、私達も今来たところだ。初めから静雄はこの状態だった』 PDFを見せられて、臨也はずかずかと土足のままで部屋に上がった。 近くで見ても彼は何も変わることが無かった。灰色のスウェット。つむられたままの瞳。微かに光る金髪。静かに上下する胸で生きている事が分かったが、普段のシズちゃんならばこんな風に眠り続けているなんて、あり得ない。 「どういうこと、これは?」 「それは私が聞きたい台詞だよ」 お手上げだというように、新羅は肩をすくめる。 『私にも分からない。霊的な類は周りには見つからない』 それから三人は無言で、臨也はシズちゃんを見下ろした。子供のように丸くなって眠っている彼はまるで幼く、無防備だった。 訳が分からなかった。 これが、例えば彼が監禁されていたとか(そんなことは臨也以外にできないだろう)もしくはなにか脅されていただとか(脅すほどの材料があるとは思えない)あるいは動けないほどの病気だとか(これが一番あり得ない!)そう言ったものの方が、まだ理解できたかもしれない。対応する方法も思いつくだろう。 それなのに、目の前の彼は、ただ、寝ている。 眠っている、だけ。 「とりあえず、僕らの家に運ぼうか。もう少し詳しく診察してみるよ」 それからどうにかして彼を持ち上げて新羅の家に運んだのだろうが、臨也はよく覚えていなかった。多分あまりの非日常に呆然としてしまって、意識が外部からの情報を処理しきれなかったのだろう。こんなことは珍しい。 そうしてひと段落して、白い堅いベッドに寝かされた静雄は病院で眠る一人の患者のようだった。 血液検査では何も見つからなかったよ、と冷静な新羅の声を隣に聞きながら、臨也はただ、静雄の、その白い顔を見ていた。 「しばらく様子を見よう。ただ、静雄はよく眠っているだけかもしれない」 ばたんと扉が閉じて、臨也と静雄だけがその小さな部屋に取り残される。薬品の匂いに混じって、彼の匂いがするような錯覚を抱いた。 そうしてやっと、臨也は静雄が眠っていることを理解した。 前 次 小説top |