試験管



※高校生時代妄想





放課後の化学室は橙色の光で満たされていた。夕焼けが痛いほど照らしてきて、眩しいけれどブラインドもカーテンもないこの教室の中では、目を細めることしかできない。

隣にいる静雄は、何を考えているんだろう。臨也は思った。そんなことを考えつつも、手は正確にブラシを動かして試験管を洗い続けている。
これで、78本目。水だけが冷たさを持って臨也を刺激する。

プラスチックの繊維と硬質な硝子が擦れ合う音と、水が流れる音だけしか聞こえない。何かに圧迫されるような幻想を抱いた。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。疑問符が胸にあふれる。いつもそうだ。彼に関わるとろくなことにならない。始まりを辿れば多分臨也にたどりつくのだろうけれど。そんな静雄はやはり臨也と同じように、無言でブラシを動かし続けている。あちらはまた63本目のはずだ。
二人分ほど離れたところに、大嫌いで仕方が無い彼が居た。声も届くし、多分、拳を振るおうと思えば届くだろう。けれど、お互いに休戦協定でも結んだかのように何も言わず、化学室の中で試験管を洗い続けている。





事の始まりなんて、いつも単純明快でワンパターンだ。
けれど、それでも今日はなぜか収束点がいつもと違っていた。

化学室で行われた実験の授業で、いつものように静雄をからかって遊んでいた臨也に、いい加減堪忍袋の緒をぶち切った静雄が壊してしまったのは、何とも高価な実験器具の数々だった。試験管やビーカならまだ良い。顕微鏡やその他もろもろの実験器具を、しかも一つや二つだけでなく壊してしまった後で、顔を青くした静雄に教師が下した罰は「お前ら二人ともこれから化学室でひたすら試験管を掃除しろ」というものだった。
どうして俺まで、と不満を述べようと口を開きかけた臨也に、静雄の恐ろしいほど鋭利な視線が突き刺さって、多分これは、すっぽかしたら余計に面倒な事になるだろうと溜息を吐いた。

普段だったら。

普段だったら職員室などで、ひたすら立たされて叱られている静雄の姿を眺めながら、腹を抱えて笑ってやっているはずだったのだけれど。

もしかしたら、今回の損害金額については化け物にも思うところがあったのかもしれない。試験管を掃除しろと言った教師の声は涙にくれているような悲しみの響きがあった。あれは確かに不憫だろうなどと他人事のように考える。



黙々と、真剣な顔で洗っている静雄は、近くにいる臨也の事など眼中から追い出している、そんなふりを続けていることが臨也には分かった。不器用な手で、さらに怒りを押さえて丁寧にやっているものだから余計に遅くなって、だから余計に臨也の近くに居る時間が多くなっているので、また苛立ちを募らせているだろう。不毛な連鎖である。
そんな殊勝な雰囲気を纏う静雄に、毒気を抜かれたのか臨也も無言で手を動かしていた。

開け放たれた窓からはじっとりと湿っていて、それで熱のこもった風が吹く。もうすぐ夏が来るのだろう。そんな予感を感じさせる風だった。

これで、79本。けれど、隣にはよくわからない色を付け、洗われるのを待っている試験管はその二倍以上もある。二人で分けてこれだけあるのだから嫌になる。ああ、と溜息をつきそうになった口元を慌てて引きしめた。隣にいる化け物に嘆息の声など聞かれたくもない。

沈黙は重たく部屋の中に溜まっていく。嘆息の声を聞かれたくないけれど、何か言葉は無いだろうかと、口を小さく開いた。

「あー……」

今日は良い天気ですね。とか、そんな他愛のない会話などをするような間柄ではないことなど、最初から承知している。いつも嘘も真も交えながらくるくると回る口が、何かつっかえているように上手く言葉を見つけられなかった。
しゃこしゃこという、そんな音が返事の代わりに彼の手元から聞こえてきた。振り向きもしない。可愛げがないなあ、と思う。

「なんか、試験管を洗う動きって、エロくない?」

白い繊維のついた細長いブラシを、細い試験管の、管の中に、入れたり、出したり。

健全な男子高校生的な発想としては中の下くらい。ものすごく下らない。
けれど、ぶはっ、という息を吹き出した音とアンサンブルで聞こえた、何かがぐしゃりと砕ける音。

「お、おおお、おま、お前、は、……」

右手で口元を隠すようにして、静雄が臨也の方を睨みつけていた。顔が赤いのは夕陽に照らされているだけではないはずだ。わなわなと震える唇は、何か言いたげだけれど、明瞭な言葉にならない。

「シズちゃんって本当に初心だねえ」

呆れと皮肉をこめて臨也は口の端を吊り上げる。そんな顔で睨みつけたところで痛くも痒くもない。まあこんな反応を予想していたのだけれど。
ふと、鉄の匂いが鼻をついた。先ほどのぐしゃりという音と含めて、彼の右腕に視線を落とせば、赤い血が手のひらからたらたらと流れ続けていた。

「血、が、」

臨也が指を刺せば、静雄の視線も自分から離れてそちらに向いた。
その赤は、水道の出しっぱなしの水と合わさって排水溝に流れていく。先ほどの自分の発言で、試験管を握りつぶしたようだ。恥ずかしさのあまり試験管を握りつぶすって。やはり彼は規格外すぎる。

硝子の破片は、その手のひらに食い込んで、そうして薄い皮膚を食い破り、血液を流させている。

うわ、やべえ。困ったような声が聞こえた。さすがの彼も、だくだくと流れ続ける血に少し引いているようだ。静雄は水を止めて、肘を折り曲げた。手のひらをよく見ようと顔の近くに持っていけば、重力に引かれたその赤い血液は肌の上に筋を作って、肘から垂れていく。赤い滴は先端まで届くと、リノリウムの床にいくつかの小さな斑を作った。

雪のように白い腕から流れ落ちる、それは、酷く、扇情的で。

そんな光景に嫉妬にも似た感情を抱く。
彼を傷つけていいのは自分だけだ、なんて。

止血しようとか、硝子の破片が埋まっているかもとか、なんとか適当に言って、ポケットからハンカチを取り出した。黒いギンガムのハンカチは、白と赤にはまるで似合わない。

「……とりあえず、これで、血でも止めたら、」

右の手首を取って、その傷口にそっと巻いた。ハンカチに血が染み込んで、余計に黒い色になる。彼の手首は酷く冷たかった。長時間水に晒されて、そうして血を流し続けているのだから当たり前だろう。けれど自分の手のひらは異様に熱くて、いつもと真逆なその温度にさえまごついた。

「お、おう……」

返事に覇気が無いのは、そんな臨也に戸惑っているからだろうか。
普段だったら。胸の奥で、臨也は一人小さくつぶやく。普段だったら、塩酸でもその傷口にかけてやるのに。かけて、やれるのに。

目を閉じる。白い肌と、赤い筋。化学室の薬品の匂いに混じって、濃い血液の匂いを感じた。普段だったらそう出来るけれど、目の奥の彼の姿が、そんな自分を妨げる。

――どうしてこんなことになってしまったのだろう。

化学室の中、後悔のような懺悔のような思いを抱いて、臨也は一人、思う。





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来神高校、化学室にて









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