小学生の頃、彼女と出会った。放課後たまたま音楽室前を通ったときのこと。太陽はとっくに傾き、ほとんどの子どもがいなくなったこの時間。静まった廊下を進んでいた俺の耳に、微かにピアノの音が聞こえた。とりわけ音楽が好きなわけでもないのに、足は吸い付いたようにぴたりと立ち止まったまま動かない。どうやら、その正体に興味が湧いたらしい。音をたてないようこっそり防音扉を開け、音楽室を覗いた。こちらに背を向けるようにピアノへ向かっていたのは、いつもピアノを弾いている音楽の先生じゃない。ずっとちいさい背中と、音楽に合わせて揺れる細いからだ。後ろ姿で同じクラスの女の子だと分かった。ピアノ弾けるんだ、上手だね。なんて声を掛けようと口を開いたけれど、止めた。ただ、流れるようにピアノを弾く彼女に釘付けだった。まるで魔法にかけられたようになめらかに動く細い指と、澄んだ音色の奏でる綺麗なメロディー。幼いながらも、これが人を惹き付けるものだと理解した。あのときの光景を忘れたことはない。






「あ、徹ちゃん。ちょっと待っててね」

中学三年、三月。あの頃から少し成長した今も、俺は彼女の後ろ姿を見ている。小学生のときよりも伸びた髪、女の子らしいからだ。それでも音楽に合わせて楽しそうに揺れるところと、澄んだ音色はそのままで。今彼女が弾く曲は小さかった頃よりもずっと複雑になっているけれど、やっぱり彼女はそのままだと実感する。高校受験という山場をひとつ越え、引退後も後輩指導と託つけて放課後はバレー三昧。心地よく疲労した体に聞き慣れた音はじんわり染みるようだった。彼女の生み出す音楽には、すっと心に響くような、そんな魅力がある。そんなことを考えているうちに、彼女は曲を最後まで弾き終え満足気にこちらへ振り向いた。

「部活お疲れさま」
「アリガト。けどこんな遅くまで練習なんて、感心しないなあ」
「あ、楽譜に書き込まなきゃ…」

やっと顔を向けたと思えば、またすぐに楽譜へ向き直る。普通の女の子なら、俺の言葉を遮ることなんてしないのに。彼女はずっとこうだった。どんなに優しく接しても甘い言葉をかけても、するりと躱してしまう。いつだったか、誤って彼女へ素っ気ない態度をとってしまったとき、そっちのほうが徹ちゃんらしくて好き。と、嬉しそうに言ったのだ。面を喰らった俺はしばらく黙ってしまったけれど、気が付けば笑っていた。これまで張り詰めていたものが嘘のように消えていくようで、嬉しかった。彼女には何か不思議な力でもあるのだろう。このときから、彼女は特別な女の子なのだと思うようになった。
書き込みを終えた手書きの楽譜をがさがさと一束にまとめ終え、くるりと体ごとこちらを向く。化粧もしていない、幼いかお。女子の平均身長を越えてるとは言え、ピアノ椅子に腰を下ろしたままのせいで彼女は随分と小さく見えた。

「はい、なあに?」
「…こんな遅くまで練習なんて、危ないよ」
「それなら徹ちゃんもね」
「俺は男だから」
「でも、その男の子の徹ちゃんが迎えに来てくれるでしょう?」

そう言って、ころりと笑う。彼女がときどき投げつけるびっくりするような言葉に、俺はどうしても慣れない。注意をするつもりが、肩透かしをくらった気分になる。確かに、彼女の言葉通りに動いてしまっているのは事実だ。それでもなんだか頼りにされているようで、柄にもなく嬉しいなんて思っている。敵わないな、ホント。少し緩んだ顔を隠すように彼女の頭をくしゃくしゃと撫でる。少し乱暴なのに、嬉しそうに目を細めた。

「ホラ、いい加減帰るよ」
「はいはーい」

急かすように譜面板を畳み込み、大屋根を下ろす。ピアノの片付け方なんて、彼女のお陰ですっかり覚えた。最後に鍵盤蓋を下ろしながら、彼女は必ずありがとうと微笑む。きっと、音楽の才能を伸ばし続けるのはこういうところがあるからなんだろう。あまり中身の詰まっていない彼女の鞄を持ち、扉を開ける。電気を消された音楽室は、窓から射す月灯かりだけに照らされていた。






帰り道をふたり並んで歩くのは、出会った頃から変わらない。家の方向は大体同じ。彼女が左側を歩きたがるのは、小さい頃からの何げない癖。そして、上機嫌にあの曲を歌っている。

「その曲、好きだよね。小さいころからよく歌ってる」
「うん、大好きなの」

歌詞のないソレは、有名なクラシックでも定番のポップスでもない。初めて彼女のピアノを聴いたときと同じ曲。あまり一曲に執着したがらない彼女にしては珍しく、何か思い出があるのか耳にすることが多い。授業中にこっそり鼻歌を歌っていることだってある。可愛らしいフレーズの続く少し幼いけれど彼女らしい曲で、よく似合っていると思う。

「フーン。ま、俺にはよく分かんないけど」
「徹ちゃん、すごく器用なのに音楽は弱かったもんね」

その大好きが少しでもこっちに向いてくれたら、なんて。思ったところで口から出たのはま反対の愛想のないものだった。仕返しとばかりに俺の弱いところをついて、にんまり笑う。こういうところは負けず嫌いなうえに、意地が悪い。
彼女の言うとおり、俺は音楽が苦手だった。授業で歌を歌えば周りの子に変な顔をされるし、試しにピアノを触ればボロロンと不協和音を奏でる。そんなオレを見かねたのか、彼女のレッスンを少しずつ受けることになった。しかしそれは、長い戦いとなる。彼女のぼんやりした教え方は、理解するのに苦労した。基本的な楽譜の読み方、フラフラな音程を合わせる練習。どれも感覚でこなした彼女にとって、他人に伝えるのは難しかったという。それでも練習は楽しかったし、今では歌もそれなりに歌えるようになったのだから、なんとかなるものだ。

「もー、昔のはなしデショ」
「ふふ、ごめんなさい」

自分の恥ずかしい話は、好きじゃないししたくない。でも、彼女はきっと俺のぜんぶを知ってるから。
見上げた空には、月だけがぽつんと浮かんでいた。いつもならば無数に散らばっている星が見当たらない。明日は晴れないのだろうか。気が付けばもう、彼女の家の前だった。

「そんな徹ちゃんに、今日は嬉しいお知らせがあります」

突然そう切り出して彼女は立ち止まった。肩に掛けていた鞄を抱くように持ち直し、彼女は俯くように目線を落とす。その様子に、覚えがあった。あまり、良い予感がしない。ちゃんと聞いてるから、教えてよ。なるべくその不安を伝えないように声をかければ、彼女は顔を上げた。まるい瞳は、しっかりと俺を捕らえている。

「わたし、東京の高校に行くんだ」

一瞬、息が止まったように言葉に詰まった。それでもその意味を脳は受け止める。ぞわりと、背骨に這うような感覚が走った。ピアノの先生に着いて行って、ここでは出来ないことも、いっぱい勉強するの。楽しそうでしょう?彼女の声は、驚くほど明るかった。

「青城、受けたんじゃないの?」
「決めたの」

そんなの、返事になってない。込み上げた言葉をなんとか呑み込む。そっか。簡素な返事とともに、深く息を吐いた。
俺よりずっと小さいからだで、彼女はいつも先を行く。それが悔しくて歯痒くて、隣に並びたいとひたすら努力した。それでも届かない。これまで何度も痛感してきた、才能の差なのだろう。そんな情けない言い訳に縋る奴が、彼女をここに縛っちゃいけない。いつかこうなるかも、とは考えていた。それが少し、早まっただけだ。

「全く、及川サンは寂しいよ」
「ウソつき。バレーがあれば大丈夫なくせに。それに大好きな岩ちゃんも居るじゃない」
「…それはそうだけど、ね」

ウソだって言うなら、ちゃんとぜんぶ見破ってよ。そう言ってすぐにその細い腕を掴んで、小さなからだを隠してしまいたい。それが出来ないのは彼女のせいなんかじゃない。全部、意地っ張りで臆病な俺のせい。それから、彼女のなかの及川徹をダメなやつにしたくないなんていう、馬鹿みたいなプライド。
ほらねと得意気に笑った彼女に、ひどいなあとぺらぺらな笑顔を贈る。

「送ってくれてありがとう」
「別に、いつものことだしね」

毎回律儀にお礼を告げるから、このときは少し流し気味に返す。辺りはもう真っ暗で、あまり顔が見えない。両開きの門を開けば、キイと音をたて彼女を迎え入れる。ここで、彼女は振り向くんだ。

「バイバイ、徹ちゃん」

いつもと変わらない声で手を振るから、いつものようにおやすみと返す。おやすみ。返ってきた返事は少しだけ小さな声だった。くるりと踵を返し、彼女は扉の向こうへ消えていく。扉の閉まる音は深く沈んだように重かった。
俺たちを隔てる門に手をかければ、ひんやりと指先の温度を奪っていく。門の外から玄関の扉まで、たった二メートル。上手く、笑えていただろうか。振り返ることのない背中を見ながら、俺がどうしようもないくらい格好悪い顔をしていたことを彼女は知らない。そして、閉じられた扉の向こう側で彼女が静かに涙を流していたことを、俺は知らない。

嘘が上手になったのか、鈍くなったのか。それとも見ないフリをしているのか。どれにしたって、俺たちは変わってしまったのだろう。あのピアノの音色も、きっともう戻らない。



世界でいちばん近くにいたひと/20130824


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