※21巻(第182Q)の内容を含みますのでご注意下さい




「着替えなよ、風邪引く」

聞き慣れた声が、びくりと鼓膜を揺らし耳に落ちる。声の方向へ顔を向ければ、控え室の扉を背凭れに寄りかかる先輩の姿があった。先ほどの声は特別張り上げたわけでもないのだろうが、無音を貫いた空間には随分大きく響いた。それから一呼吸を置き、オレは浮かんだ疑問を口にする。

「先輩、先にお帰りになったはずでは…」
「和成が、オレの代わりに真ちゃんなぐさめてあげて、ってね」

ほら、さっさとそのだらしない顔拭きなさい。辛辣な言葉と同時に投げつけられた物体は、すっぽりとオレの頭を覆い視界を橙色に埋め尽くした。衣擦れの音と香り馴れた洗剤の匂いに、ジャージを放られたのだと気づく。先輩なりのなぐさめとは、投げやりとも形容できてしまうくらいに手荒いものだった。大雑把に被されたジャージを引き剥がせば、眼前には腕を組む先輩の姿。手に取ったジャージには、ぐちゃぐちゃに皺の寄った跡が残っていた。

「ウチのエース様なんだから、体大切にして」

諭すように告げられたエースという言葉。たった一人に与えられる、特別な称号。その響きは賛美されるものである。実際に中学時代、この称号を勝ち取った奴は多少の難はあれど、やはり輝かしい人物であった。しかしそのぶん、必ず付き回るものがある。例を挙げるならば、数多の視線や期待、信頼。委ねられる感覚とは決して甘くない。あのコートの熱が、ざわりと蘇る。緊迫感、ブザービートに届かなかった手、点差の開いたスコアボード。ああ、オレたちは、

「負けてしまって、済みませんでした」

自分の声はこんなにも情けないかと思うくらい、弱弱しかった。オレを見ているであろう先輩の表情は見えないが、彼女が謝罪を求めていないことは言うまでもなく解っている。すべての想いを背負ってコートに立つのが、オレたち選手の役割だ。チームの誰もが試合終了のブザーが消えるその一瞬まで諦めることはなかった。人事は尽くした。闘いに悔いはない。それでも、断ち切ることはできなかった。勝ちたかったと、ただ思う。

「緑間、手、出して」

静寂を再び遮るように先輩の履くシューズが音を立てるが、掛けられた声に顔を向けられないままだった。どんな顔をしてどんな言葉を交わせば良いのだと、救いのない問答を繰り返す。次第に迫る先輩の爪先が視界の隅に入り、次の瞬間にはしゃがみ込んだ先輩の姿がそこにはあった。呆気にとられるなか、目に入った先輩の手には、愛用のテープが乗せられていた。

「テーピング、してあげる」

包むようにオレの手を取り、ほほえむ。いつもと同じ、やさしさの滲む眼差しがなぜかひどく哀しげに見えた。






「ほんと、綺麗な手をしているね」

それまで無言だった先輩がそう口にしたのは、テーピングが左手の小指に差し掛かったときだった。手慣れている動作を止めるでもなく、まるで自然の流れのうちのように滑らかな口調で。
これまでにも、この人はよくオレの手を誉めた。そのたびに茶化すなと眉を寄せたものだが、今となってはそのまなざしがどこか歯痒い。なにも返答を寄越さないオレに、先輩はそれまで左手へ向けていた顔を上げた。思いもよらぬ笑顔が、そこにはあった。

「この手が、わたしたちをここまで連れてきてくれたんだよ」
「しかし、」
「……3年にとってはここが最後だった」

ぐっと、息が詰まる。伏し目がちに告げられた言葉に、もう全て終わったのだと言われたようで胸が重くなった。それでもテーピングを続ける先輩の手付きは優しく、再び向けられた視線に悔しさや悲しみはない。そこにはただ、温かい笑みがあるだけだった。

「でも、秀徳は終わらないの。試合に出られなくても、気持ちはずっと一緒にあるよ。またここに戻ってくるの、信じてるから」

はい、これで終わり。そう告げ、先輩はテーピングの施されたオレの指を満足気に眺める。へらりとほころんだ目許に、いつもの先輩の姿が浮かんだ。マネージャーの仕事は決して目立つようなものではないが、いつだってオレたちを支えていたひと。

無機質なテープの巻かれた真白の指をすくうよう手に取った先輩は、そっと唇を落とした。

「なっ、!」

反射的に手を引いた。状況を理解するまで、そう時間はかからない。事態は単純、ただ彼女がオレの指へ口づけたのみ。しかしそのひとつの事象は思考すべてを陣取った。数秒前のオレは一体何を考えていたんだ。このひとには散々、今のように振り回されていたではないか。目の前の女はにやりと、意地の悪い色をはらんだ笑みを深くする。

「ふふ、頑張ったご褒美と、これからも緑間の努力が秀徳の力になりますように、っておまじないかな」
「…相変わらず、突飛なことばかりするんですから」
「む、生意気なうえに可愛げないなあ」

そう言いながらも先輩の笑顔は崩れることなく、くしゃくしゃと荒っぽい手つきでオレの頭を撫でた。一般より背の高いオレは、他人に頭を撫でられるということは少ない。だからこそ、先輩から時々与えられるこの行為が嫌いではなかった。しかしそう意識してしまってはやはり恥ずかしいもので、口を結び黙り込む。数秒後、乱した髪はそのままに先輩の手は離れた。

「けじめつけて、はやく準備しな。みんな待ってるんだからね」

その言葉に、どれだけの意味が込もっているのか。そんなことも分からないほど、馬鹿ではない。はい、分かっています。と、返事をすれば、先輩は一度満足したように頷き、踵を返し扉へ向かっていく。しかしドアノブを握ったとき、ぴたりと動きを止めた。

「お疲れさま、ありがとう」

こちらを振り向くわけでもなくそう残し、先輩は部屋から出て行った。ひとり残されたその静けさに、思考はぐるぐると巻き戻る。我ながら、随分女々しい考えをしている。時間は戻らないし、例え戻ろうとも結果はきっと変わらない。熱の消えない左手が握りしめたジャージは皺を濃くし、鮮やかな橙色は今のオレの目には痛いくらいに眩しく映った。



愛しくも哀しい君へ/20130311

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