どれくらい走り続けたのだろう。夢中で走っていたせいで、今どこに自分がいるかなんてわからない。ただあたりはまっくらで、身体に染みる空気は冷たかった。上下に揺れる胸に手をあて、呼吸を整える。おおきな深呼吸をひとつ。しっかり息を吐き出して、しゃがみこんだ体を起こす。

「…やっと落ち着いたか」

ななめうしろから、おそらく私にかけられたであろう言葉。振り向けば、塗装のはげかけた白い壁に寄りかかりこちらを見る、黒髪の男の人がいた。白い肌にさらりと流れる黒髪。カーテンのない窓から入る月の光が、余計にその人を綺麗に見せた。こんなに綺麗な人は、生まれて初めて見た。じっと男の人を見つめれば、眉間のしわがさらに険しくなった。

「あの、ここはどこですか?」
「俺の家だ」

この人の、家。間髪も入れずに答えた男の人は、合わさった視線をふいと外し、窓の外を眺めた。つられるように窓を見れば、少し欠けた月が高く登っている。そんな空の様子を見て、あの水路を逃げだしてからずいぶんと時間がたっていたようだった。落ち着いた心が、忘れていたおじさんの顔をじわじわ浮かべる。ぐるぐると頭をめぐる光景。気持ち悪い。再びしゃがみこもう膝を折れば、いつのまに近づいていたのだろう。男の人は私の手を取り、眉間を寄せたまま言ったのだ。

「とりあえず今は寝ろ」

その言葉を言い終わるや否や、男の人は私を担ぎ上げた。まるで荷物を運ぶように肩に私をのせる。暴れようと声をあげるが、「うるせえ黙れ」と言われてしまった。ばふんと若干投げやりに落とされた先は、固い木のベッドにつぎはぎの薄いふとん。それでも疲れきっていた私にとっては、こんな簡素なものでも十分で。すとんと眠りに落ちた私に、黒髪の男の人が部屋を出る音なんて聞くことはできなかった。




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