自分が分からない。苦しい、逃げ出したい。言葉には決して出さないけれど、私はいつもそうやって声にならない悲鳴をあげている。周りは私一人を取り除くようにして目まぐるしく展開していくというのに、私は時代に取り残されたまま。 布団の中から見上げた空は腹が立つほどに真っ青で、透き通った風が障子の向こうから入り込んできた。空を自由に飛び回る鳥が羨ましくて、憎らしい。私の心情などお構い無しに、季節はもうすぐ麗らかな春を告げようとしている。
「っ、」
急に喉の奥から込み上げてくる気持ち悪い感覚にごほごほと咳き込み、あわてて手のひらで口の周りを覆って──苦笑した。べっとりと赤に塗れた手のひらは、私の短い未来を予告していた。労咳は確実に私の体を蝕んでおり、いつ死ぬか分からない恐怖と、いつ新撰組から切り捨てられるか分からない恐怖に苛まれる日々。自ら刀を取り、今まで女を捨てて生きてきた私には、嫁に貰ってくれる所もない。しかも労咳を患っている女なんてどこの家も欲しがらないだろう。戦に加勢したいのに、こんな体で刀を振るえるはずもなく、だからといって炊事や洗濯を行えるわけでもない。完全に新撰組のお荷物状態。自分と同じ病気の沖田総司はどうしているのだろうか。彼も病と戦っているのだと人づてに聞いたが、私は最近寝たきりだったので詳しい事は聞かされていない。
「…入るぞ」
汚れた手を掲げながら、ぼうっとその赤を見つめていると、私の返事を待たずに襖が開いた。同時に、ふわりと粥の香りが室内に漂ったものだから、私は首だけを入室者の方に向けた。
「!あんた…また血を吐いたのか」
「あ…一君。粥を持ってきてくれたの?」 彼は私が話を聞かない事に慣れているのか、ため息をつくと布団の横に粥の乗った盆を下ろした。粥の匂いが鼻をくすぐるが、食欲は全くといっていいほど湧いてこない。彼は忙しいくせに、私にしょっちゅう世話をやいてくれる。もしかすると、副長に私の面倒を見るよう命令されたのかもしれない。副長を尊敬している彼なら、真面目にその仕事を全うしそうだ。しかし、たとえ命令で動いているのだとしても、私は彼が来てくれて嬉しかった。昔から何かと縁がある彼は、私が唯一信頼できる相手でもあるのだ。
「最近食事を口にしていないと聞いた。皆、困り果てているが」
「食欲がないから…」
「少しでも物を口にしなければいつまで経っても回復しない。あんたとてそれくらいは理解はしているのだろう」
分かって、いる。いくら食べ物を口にしたって、この先の私の人生は短い。彼が言いたいのはそういう捻くれた事ではないと知っているのに、悪い方向に考える自分が嫌になった。その一方で、彼は手拭いで血に汚れた私の手を丁寧に拭いてくれていた。
「止めなよ、一君にまで移ったら大変」
「随分と今更だな」
「…それはそうだけど」
綺麗に血を拭き取ってくれた一君にありがとうと短い礼を言うと、彼は私の頭をそっと撫でてくれた。この瞬間が、私の一番好きな時間でもあった。あたたかくて、私よりもずっと大きい手は、沢山人を殺めてきたものでもあるけれど、私は怖いだなんて思わない。寧ろ安心するし、彼の手で守られたこともあったのだ。怖いなんて思う筈がない。 「皆は元気?」
「いつもと変わらん。あんたが心配することはない」
「そっか、良かった。皆、血の気が多いから怪我とか大丈夫かなって思ってたの」
他愛ない会話が終われば、彼は仕事に戻ってしまうだろう。そして再びこの簡素な空間に一人きり。私は彼を引き止める権利などないし、困らせるような事を言える立場でもない。私には、彼の背中を見送るだけしかできない。
「一君、時間そろそろでしょ?行かなくていいの?」
「ああ、そうだな。また来る」
「……」
「どうした?気分が優れないのか?」
「…もう、いいよ。一君」
「いい、とは何が…」
「もうここに来なくていいよ」
一君は驚いたようで、目を大きくしていた。でも、この話を切り出すかどうかはずっと考えていた事だった。優しい彼は、病魔に苦しめられている私を放っておけなかっただけ。だから多忙な彼をこれ以上縛りたくない。
「今までごめん。病人の看病なんて迷惑だったよね」
「おい、」
「今までありがとう」
もういいの。私はこの運命から逃げ出したくても逃げられないのだから。彼も私に構う時間が無くなれば、その分休息に当てられる。もう私のために何かをする必要はない。苦しくないよ、私は大丈夫だ、って思っていた。──それなのに、どうして胸が張り裂けそうなくらいに悲しいの?
「…あんたは本当に強情な女だ」
「うる、さ…」
「そのくせ、酷く脆い」 気付けば、私は一君の腕に包まれていた。あたたかくて安心できる彼の体は、私を混乱させた。私が求めていた、彼のぬくもり。
「言いたい事があるのだろう?」
「……」
「言いたくないのであれば強要はしないが」
「…どうして、一君は私の世話をやいてくれるの」
言って、その瞬間後悔した。自惚れもいい加減にしろと自分自身を叱責してやりたかった。恥ずかしい、彼はただ責任感から私の世話をしているに違いないのに。
「ご、ごめん、今のは」
「好いているからだ」
「………え」
「好いている女の顔が見たいと思うのは当たり前ではないのか?」
嘘、だ。そんなの信じられない。彼にはもっといい人が見つかる可能性は大きいし、第一こんな役立たずな女を好きだなんて。思わず彼の肩を押して離れようとしたけれど、それは許されなかった。まるで、逃がさないとでも言うように、先程よりも強い力で抱きしめられた。
「…すまない」
「なんで、謝るの」
「俺にはあんたの労咳を治してやることは出来ない」
「……」
「だが…傍に居ることは出来る」
やっぱり、彼はずるい。たった一言で私を一喜一憂させるんだから。諦めていたこの先だった、でもあともう少しだけ生きたい。様々な色で変わり行く景色を彼と一緒に見たいと思った。
「ずっと、一君の傍に居たいよ」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で私が笑えば、彼は少しだけ悲しそうな顔で、けれど優しく微笑み返してくれた。溢れだす私の涙を止めるかのように、瞼に落とされた彼の唇はとても熱かった。
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