「私は、人を殺すのがこわい」
喉から洩れた私の声は、自分が思っていたよりもはっきりと空気に溶け込んだ。外はどしゃ降りの大雨で、地を叩きつけるその音は室内に居るにも関わらず、酷く耳障りに感じてしまう。何時もなら、雨の日は部屋の中で雨音を聞きながら呆然と考えを巡らせるのだが、今日は違った。私は畳に膝をついたまま俯いて、一と目を合わせることが出来ないでいた。
「今日もたくさん人を殺した。長州の奴らが密会をしている民家に御用改めしたんだ」
人を殺すのには何時まで経っても慣れない。自分が他人の命の灯火を消す瞬間は、一度経験したら到底忘れられるものではなかった。
「私が、とある男に刀を向けた。すると、押し入れにでも隠れていたんだろうね、歳のいかない小さな女の子が飛び出してきたんだ。その子は私に"父様を殺さないで"って縋りついてきた」
「……」
「私が殺そうとした男は女の子の父親だったんだろうね。男は自分の子を守ろうと一歩踏み出したがもう遅かった。私が、その女の子を斬り伏せたんだ。…男の目の前で」
私の着物を掴んでいた女の子の小さな手は、斬り伏せた瞬間にゆっくりと力を失って、体と共に地面に伏した。涙を溜めた無垢な女の子の瞳が最後に映したのは、何だったのだろう。歪む父親の表情か、それとも私の刀の切っ先か。女の子以外にそれを知るものは居ない。一は私の話を聞いているのかいないのか、相槌一つ返してはくれなかった。顔を上げるのは何となく躊躇われて、私はじっと畳の若草色ばかりを見つめていた。だから彼の表情は分からない。ずっと無言だという事は、こんな話をする私に呆れているのだろうか。だけど本当に今更だ、こわい、なんて。
「父親の方も、あっさり斬り伏せて終わりだった。呆気ないね、人の命は」
「…あんたは、」
「え?」
「あんたは、後悔しているのか」今まで口を開かなかった一が、何時もと変わらぬ平淡な口調で尋ねてきた。ザアザア、ザアザア。雨はより一層激しさを増し、大地に恵みを与える。私はこの煩く耳障りな雨音に、少なからず感謝していた。雨音がなければ、この部屋は静まり返って空気は今よりもずっと重くなっていたに違いない。
「…後悔しているのか自分でも分からない。でも、複雑なのは確か。あんなに小さな子を殺してまで、私は…」
女の子の紅葉みたいに可愛らしい手が、力一杯に私の着物を掴んだあの感触。彼女の父親が絶望と憎悪に揺れる瞳。血に濡れた屍たち。全てが恐くて、気持ち悪かった。私は新撰組に入って、何をしたかったのだろうか。皆の平穏な生活を守りたいだけだったのに、私は小さな女の子の命を奪った。いや、年齢は関係ない。人の命の重さに、年齢も性別も関係ないんだ。女の子の立場にしてみれば、平穏を守ろうとした私に、自分の命と家族を奪われたのだ。
「…私は最低だ」
取り返しのつかない人斬りという行為をたくさん重ねてきし、汚い仕事なんて腐るほどこなしてきた。だけど、当たり前に人を斬る自分に、急に恐れを抱いてしまったのだ。自分の掲げるちっぽけ平和のために、他人の平穏な生活を奪う。それは本当に正しいのだろうか。もういっそのこと、
「…あの場で私が死ねば良かったのか?」
口に出すつもりなどなかった。けれど、うっかり滑り落ちてしまった言の葉を取り戻すことは不可能だ。雨音に掻き消されていれば幸いだったものの、一はしっかりとその音を拾い上げたらしい。
「いい加減にしろ」
ぺち、と軽く頬を叩かれて顔を上げると、一が私を見下ろしていた。自然と私が彼を下から見上げる形になるのだが、そのせいもあってか一の表情は酷く冷たいように感じる。ああ、これは怒っている時の目だ。彼の、憤りを携えた表情は冷たく、ピリピリとした雰囲気を纏っていた。
「死んでもいいなど、軽々しく口にするな」
「っ…」
「あんたは、斬った相手の重みまで背負うと言った筈だ。自分自身が誓った言葉でさえ忘れたのか」
「……ごめんなさい」分かっていた、こんなの誰が聞いたって怒ると。でも、今はそうやって自分を責め立てて自己嫌悪に陥るしか逃げ道はないから。本当は苦しい。苦しくて悲しくて堪らない。敵であろうと人間であることに変わりはないのだ。人の恐怖や憎しみに染まる顔なんて、出来るだけ見たくない。私が目指していたのは、人々の笑顔や活気が溢れる世の中だ。そんなものは所詮綺麗事だし、不可能だと理解している。だけど、だけどね、身近な平穏くらいは守れるんじゃないかって。全ての人を笑顔にするのは無理でも、自分の身近な人を守ったり幸せにしたりは不可能なんかじゃないって思った。だから私は自ら刀をとったのだ。
「…なまえ」
「…こわいよ、自分がこわい。覚悟したはずだったのに、堪らなくこわいんだ」
頭の上に僅かな重みを感じると共に、目頭から零れ落ちた滴が頬の上を滑った。ぽろぽろ、溢れるそれは止まる気配をみせない。畳に染みを作ったそれをぼうっと眺めて、漸く自分が泣いているのだと気が付いた。一は何も言わずに、私の頭を優しく撫でている。幼子をあやすかの様なその優しくてあたたかい手つきは、私の荒んでぼろぼろだった心にじんわりと染み込んだ。
「生憎、俺は泣いている女子を慰めた経験はない」
「…知ってる」
「それ故、かけてやる言葉すら浮かばないが…それで良いのならば好きなだけ泣くといい」
言葉なんていらない。ただそこに居てくれるだけでいいのだ。私は誰かに自分の弱い部分を滅多に見せたりしなかった。けれど、本当は誰かに知ってもらいたいと思うのが人間の性だ。どんなに強がっていたって、そんなものはただの虚勢でしかない。私は刀をとってから泣いた事などなかった。弱みなんて見せたらいけないって気を張ってた。でも、今だけは。どうか今だけは泣かせてください。


その手に確かに救われていた


雨は、気付かぬうちに上がっていた。