キッチンに立ち、キドは一人エプロンに手を伸ばした。
それを身に付けると、途端気合いが入る。
『しっかりしないと』なんて、オママゴトのお母さんみたいな気になってしまう自分を笑った。
こんなこと、そこのソファーに座る阿保に言ったら笑われるな…
そう思いながら、頭上に付いてる引き戸を開ける。
中にずらりと並ぶ料理本を一冊取り、パラパラとページをめくった。
これにしようかな…
その中の一つのメニューに目が止まり、そこに載っている材料を読む。
これなら今、冷蔵庫にある分で作れそうだ。
冷蔵庫をガラリと開け、中から必要な使いかけばかりの材料を取り出した。
ガスコンロの下に付いた引き戸から、調味料のボトルを取り出す。
ボウルと軽量スプーンを出し、料理本を見ながら順に分量を量っていった。
「砂糖大さじ3…醤油…」
「な〜にしてんの?」
『大さっ!!』
突然の背後からの衝撃に、キドの身体が揺れる。
手元が狂い、彼女の手から醤油のボトルと軽量スプーンが抜け落ちた。
「ぎゃあああああ?!」
間を置き、キドから上がった悲鳴。
目の前で起きている事が信じられなかった。
しばらく放心する。
その間、ボウルの中でひっくり返った醤油のボトルから、ドボドボと不穏な音が鳴っていた。
半分以上ボウルに注がれた所で、キドは静かにボトルを起こす。
ボウルの中は身体に悪そうなくらい、黒に近い茶色の液体が溜まっていた。
「やべ…」
呟いてそそくさとその場を退散しようとしたカノのフードが、ガシッと伸びてきた腕に掴まれる。
「覚悟はいいよな?」
「ひぃ…!」
ロボットの様にゆっくり首を動かしたキドが、カノに握った拳を見せ、笑った。
カノは小さく悲鳴を上げる。
笑ってる…けど笑ってない…
謝る間もなく、カノの頬に拳が飛んだのは言うまでもない。
「お前出入り禁止!」
そう言われ、カノはキッチンから放り出された。
「ごめんね!」
『お詫びに手伝うから…』
と言い、キドに再度近寄ろうとするも、『いらん!』とピシャリと跳ね退けられてしまう…。
「じゃあ…」
カノは仕方なく彼女との接触を諦め、キッチンのカウンターからキドを眺める事にした。
カチカチと時計の音が響く。
作業をするキドの後ろ姿を、ただニコニコと笑ってカノは見つめた。
ただ無言。
だが変な空気が彼等を包む。
徐々にキドは眉を怒らせて行った。
10分くらい経過し、キドは堪えられなくなりその名を呼ぶ。
「カノ…」
「ん?」
『存在が邪魔。』
彼女は冷えた目で、そう彼に言い放った。
「そこに立つのも禁止だ!」
『テレビでも見てろ!』
キドにそう言われ、カノは『え〜』と不満を漏らす。
「…………はい。」
渋々了承し、カノは肩を落として再びソファーへと向かった。
ソファーに座り、クッションを抱きしめる。
「ねぇ…もうそっち行っていい?」
3分も経たずに、テレビを見つめているだけのカノが、それに目を向けたまま後ろで作業する少女に問うた。
「飯出来るまで駄目だ馬鹿。」
『う〜…』と唸り、カノはクッションに首を埋める。
その顔は先程と同じく頬を膨らませ、むくれていた。
「ねぇ、まぁだぁ?!」
「まだあれから1分も経ってな…」
言いかけたキドの耳に入る、ピンポ〜ンというチャイム音。
来客のようだ。
「は〜〜い」
声を張り上げ、キドは一度調理を中断し、パタパタと玄関に駆け寄る。
カノはそれをチャンスと見、ソファーを降り廊下に待伏せた。
『キッチンには』立ち入り禁止って言ってたよね?
ニヤリと悪戯にカノは笑う。
此処なら良いわけだ。
「いりません。」
凛としたキドの声が玄関から聞こえ、やがて足音がこちらに近づいて来る。
「新聞の勧誘だった…」
ふぅと息を吐き、目を伏せたキドが頭を掻きながらリビングへと戻って来た。
いよいよキドに触れる!
ウキウキした表情でカノはキドに手を伸ばす。
彼女はまだ気付いていない。
「キ」
「あっ!」
『洗濯物忘れてた!』
『ド…』と、彼女を呼ぼうとした声が、小さな呟きになり消えた。
伸ばした手も、彼女が手前で足を止めた為、空で虚しく震える。
踵を返し、キドは再び来た道を戻り始めた。
ヤバい…
「限界なんですけど…」
伏せた表情のカノが呟いた。