猫は赤字を嘆いた。 先月に引き続き、今月も経営は右下がりの状態が続いている。世間ではやれ好景気だの何だのとやかましいが、その余波はいつになったらここまで届くのか。全部なくなってからじゃ遅いんだ、よっ、と、猫は家計簿と兼用の帳簿を机に放った。湯のみに手を伸ばすも中は空っぽ。淹れなおすため立ち上がるのもおっくうで、机にうつ伏せる。 猫――正確には猫又である。そのため一般的に想像されるような猫ではないことを断っておかなければならない。尾が二つに割れた猫の妖怪を猫又といい、ここで帳簿を前にうなり声を上げる彼女は人間の形をしている。駄菓子屋「宇田川商店」を訳あって切り盛りする女店主。それが彼女だ。名を宇田川茜(うだがわ・あかね)という。彼女、茜と奇妙な隣人たちが織り成す怪奇譚については本家をご覧じていただくとして、ここは一つ、余談のような代物とお考えいただきたい。そしてまた、彼女の店が経営難に陥っていることを付け加えておくことにする。 ――そうでもなけりゃ今頃は左団扇、こたつでぬくぬく冬越ししているさ。 茜はただ布団を挟み込んだ、形だけのこたつ机を恨めしく思った。最後に火を入れたのはいつのことだったか。猫又も猫のうち、例に漏れず彼女は滅法寒さには弱い。今日の寒さも身に余るくらいだ。 しかし、ここで電源を入れてしまうと、ならば明日もとずるずる使ってしまうのは目に見えていた。まだもっと寒い日に、寒さに堪えきれなくなった時に使うのだ、と心を鬼にしなければならない。……こたつに火の気はなけれども、家計はすでに火の車に乗っているのだから。 店は開店休業状態で、この寒いのに店先に立つ気も起こらない。お茶のおかわりでも、と思っていたところにちょうど、嗅ぎ慣れた香水の匂いが鼻をついた。 うつ伏せから身を起こし、振り見ると、赤いマントの男がやって来るところだった。その手に盆を携えて。彼はいつも香水の匂いをさせているため、こと嗅覚に優れた彼女には、どこにいてもわかるのだ。男は無言で茜の向かいの席に陣取った。 「あんた、店番は?」 問いに答える代わりに、男が窓を見るよう促す。 水滴で白く曇る窓、その向こうでは雪がちらついていた。寒い寒いと思っていたが、どうりでそのはずだ。 「……先週に続いてまた雪かい。嫌になるね」 茜はうなだれるように机に頭をもたせた。これではとてもじゃないが集客は見込めそうにない。無駄に人件費がかかるのも厭わしい。アルバイトは来て早々にお帰り願うとしよう。 向かいに座る男は雪を認めると寒そうに、マントの裾を寄り合わせた。派手な赤はさぞ雪に映えるだろう。彼はその姿にならって、巷間では、赤マントと呼び為されている。茜もそれに従じて男のことを赤マントと呼称していた。 ――しかし近頃では呼び名に反してマントを着用していないことの方が多いのに、珍しい。気温の低さからだろうか、今は正しくマントの用法を果たしている。平生であれば物申したい気もするが、今の茜はそのことに突っ込む気力も起こらなかった。 今日の稼ぎが見込めないとなれば、また生活のどこかを切り詰める必要が生じてくる。それこそ大口の客でも入れば当面の心配は無用なのだが……。 そんな茜の気苦労を知ってか知らずか、向かいに座る男は悠長に二杯分のお茶を汲み、一つを茜の頭の横に置いた。茜は立ち上る湯気を何を思うでもなく眺めてから、緩慢な動作で起き上がり、冷えた両手で湯呑みを包む。猫舌と呼ばれるのが癪ではあるが、熱いものが苦手なのもまた事実だった。 盆に乗せたうち、小皿の方を茜によこす。魚型のクッキーは茜の好物だった。赤マントはそれを尻目に手元に残した饅頭の包みを無造作に開く。お茶受けということだろう。茜はクッキーに手を伸ばす。見かけによらず甘党の彼がこのクッキーを頑なに拒むのは、これが甘くないためだろうか。(……このクッキーは俗にカリカリと称されるものだった。しかし猫扱いされることが嫌いで、スーパーのペット用品売り場に近寄りもしない彼女にはわかるはずもない) 二つ目を口に運ぶ段で、ふと、ううんと響く音が鳴っていることに気がついた。足下からだ。それで茜は口をもぐもぐさせながらこたつ布団をめくった。 「アッ、なに勝手に電源入れてくれてんのさ」 予想したとおり、覗き見たこたつの中には火元が赤く染まりつつあった。 「身近なとこから節電してかないと貯まるもんも貯まんないんだよ」 人が我慢してんのにまったく油断も隙もない、と息まく茜に赤マントはそっと目を逸らす。言い訳するように、彼は本日初めて口を開いた。 「……雪が、降っている」 「そりゃ降るさ」 「先週は、次に降れば点ける、と」 「私が? そんなこと言ったかね」 雪が降ったらこたつをつけるなど、言った覚えは茜にはなかった。しかし相手の目は「確かに言った、この耳で聞いた」と言いたげだ。記憶違いかと思いきや、しきりにマントを気にする様子の彼を見ていて合点がいった。ははあん、さてや前の雪の日の一件を根に持っているな、と。 前に雪が積もった日、茜とその子分猫(猫又たる彼女は周辺地域の猫を裏で牛耳るボス猫染みた立ち位置を築いていた)がよってたかって彼のマントで暖をとり、そのせいでマントが毛だらけになってしまったのだ。 茜はその後、無言でマントに掃除用のローラーテープをかけ続ける、さみしい男の背中を覚えている。その背中に、次に降ったらこたつを点けるから安心しろと慰めをかけた、ような記憶がある。約束のつもりではなかった。反古にしてはねつけてもしまうこともできる。すぐに切らないとコンセントごと引っこ抜くと脅しをかけることも―― 「……仕方ないね。10分だけだよ」 ――気持ちではそう思っていても、あたたかくなる足元につい、反論する気も失せていく。こたつのあたたかさは巧みに茜の眠気を誘う。 「あんたのマント借りると香水臭くなるからさ。中があったまったら切るからね」 あくびを噛み殺して言いながら、彼女の身体はずるずるとこたつの中へと引き込まれる。だから駄目なのだ、こたつなんて、生き物を堕落させるために発明された利器だ。でもそれも仕方ない、仕方ない。だって、 ――猫はこたつで丸くなる、なんてさ。 |