閉じゆく春に




 場違いに赤い髪が水面にたゆたう。かろうじて顔と胸とが浮かぶ形で、だらしなく垂れ下がった肢体は水の中。水を吸った制服はもはや普段とは別物の光沢をもって、身体に逆らいそのまま水底まで落ちていっても不思議ではない。木々に散らされた陽光に、まだ少し冷たい風。こんな穏やかな日に健やかに眠れるのなら本望だろう。

 ならば今度こそ死んだのだろうか、とヒトミは考える。

 さっきまで泳いでいたと思ったら、緩慢に動作を止め、空を仰ぐような体勢で浮力に身をゆだねる。チヒロにそういう癖があることは知っていた。
 死体ごっこだ、と二人のうちのどちらかがいつだったか言った。
 けれどチヒロのそれはあまりに急に、そして静かに行われるので、その都度ヒトミは今度こそと考えてしまう。
 そういう時、ヒトミはチヒロの様子をただ陸地から観察することにしている。僅かに上下する身体が、果たして生きていることの証明なのか、それとも単に水の余波なのかは判別し難い。

「これからどうしようかと思ってさ」

 チヒロが本日、水に入ってから初めて口をきいた。
「死んだのかと思った」
 ヒトミは大げさに驚いてみせる。するとチヒロが
「復活。いつもどおりのさ」
 と返すのが二人のいつもどおりの応酬だった。
 チヒロは死体のふりをしたままで続ける。
「それでさ、これからなんだけど」
「これからって?」
「目標達成の後のこれから」
 チヒロは少し苛立ったように身体を起こした。
 そして「ぼくはさ、とびっきりの贅沢をしようと考えたんだよ」と、いつかと同じ台詞を吐いた。

 学校の優等生連中が聞いたら黙っていないであろうその発言に、チヒロは微塵の後ろめたさも感じていないようだった。
 続けてチヒロが言う。
「趣味・特技、水泳なんて、意味の無いことにあらゆるものをつぎ込むのは馬鹿みたいでいいからね」

 それはもちろんそのとおり。
 チヒロの主張に相違ない。
 身体に触れて安全な水を大量に、それも娯楽の為に使うことなど一部の特権階級だけに許された、許されざる奢侈だ。
 そして、金の無い人間がそれをやるというのは遠回りな自殺だ。

 二人が初めて会った時、ヒトミの用意した昼食をうまいと言って平らげたあたりで、ああ、この人はもう長くないのだなと直感した。味覚の衰えはわかりやすい症状の一つだ。班の料理番を回避するためにも、ヒトミはちょっと信じられないような量の香辛料を使う。大体は何度注意してもヒトミの態度が改まらないのを見ると、班員の方から自然とヒトミを当番から外すようになる。
 それを、これからも作ってくれなどとぬかすのだからまともとは思えない。少なくとも、舌に関しては。

「どうにもこうにも、趣味・特技ならそれでいいでしょう」
「まあね。それはそれでいいんだけどさ」

 などと言ってどうにも歯切れが悪い。
 最近は何かにつけてそうだ。何か言おうとして、途中でチヒロの方から打ち切ってしまう。悩みなどなさそうに笑っている普段の様子からすれば異常だ。ちなみに、最近、とは泳いでいるのか溺れているのか判然としない状態から、やっと水泳の形らしくなってきた先週あたりのことを指す。
 ヒトミは地面にうつぶせの体勢で頬杖をつくようにした。

 ある程度形になったところでもうやめよう、と他人が言うのならわかるが、チヒロに限ってそんなこと言うはずがない、とヒトミは断定していた。そんなことを言うくらいならそもそも始めていなかった。
 そうなるとチヒロが逡巡している原因は一つ二つしか思い当たらない。
 その心当たりはあるが、向こうから言い出すのを待つのだと決めていた。始めたのはチヒロで、ヒトミはしがない監視員の役だったからだ。
 でも内心ではひどくじれったいのも事実だ。
 ヒトミは唐突に、チヒロの肌に張り付いたシャツを引っ張ってやりたい衝動に駆られる。

 一週間分の間を置いてやっと、チヒロはぽつりと一言呟いた。


「海に行きたい」


 そう言ってチヒロは、ヒトミへ向けて手を伸ばした。果たしてそれは「引きあげてくれ」の合図なのか、「一緒に来てくれ」という催促なのか。考えた。

 私たちは、とヒトミの脳裏に小さな予感が走った。
 私たちはきっと、自分たちのしていることの重さを考えないようにしているのだ。
 そうして水で重くなった制服は容易に体力を奪っていく。ずるずると水に引きずり込まれ、もがけども藁は無し、気づいた時には水底からはるか頭上の水面を見つめている、というのは十分にありうる話だ。
 ならば、とヒトミは思う。

 ならば気づいた上で見て見ぬふり、見て見ぬふり。

 そしてヒトミはおもむろに立ち上がると、手を取るでも引き上げるでもなく、傍観を決め込んでいた立ち位置を水端に置いて飛び込んだ。


 膜が弾けるような衝撃が全身にあって、ヒトミは頭の先まで水中へと瞬間的に沈んでしまう。地上から見ているよりずっと、プールは底までの距離が深かったのだ。パニックを起こしそうになって急いでプールの底を蹴り上げ浮上する。
 目の前にチヒロの顔があった。それが珍しく呆気にとられたふういるのでヒトミは少し気分がいい。
 春先の水はほどよく冷たく、まとわりつく衣服も初体験だったが悪い気分はしなかった。
 しかしさすがに足元がおぼつかなくなり、中途半端に伸ばされたままになっていたチヒロの手にすがりつくようにした。

 チヒロは一瞬だけ後悔したような顔を見せた。

 しかしそれも気づかなかったふりをしてやろう、とヒトミは思う。
 溺れるならば底に着くまで何も知らなかったふりで通してやろう。
 飛び込んだのは私のほうだ、と。


「ここから海までは遠いね」
「今からなら泳ぐのに適した季節になる」

 そんなふうに、どちらかがどちらかの台詞を言った。

「しんじゃうかも」
「こんな穏やかな日に死ねるなら本望だね」
「今日じゃないよ。きっともっと暑い日だ」
「それは暑くて、死にたくなるかもしれないってこと?」

 言葉の不穏さと裏腹に二人は未来の話を楽しんでいた。そうしている間にも服はどんどん水を吸って重くなり、溜まった毒はじわじわと体を蝕んでいく。

 それらを含めた全てが水泡に帰すというのは果たして不幸だろうか、と考え、やめた。
 そうだ、海ならば、この身も少しは軽くなるだろう。



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