迷走するバニー・フォレスト



 



 駅というのは忙しいのです。ひっきりなしに電車がやってきます。朝の一番早い電車から、夜の一番遅い電車まで。やってきてはまた過ぎ去っていくのです。
 もちろん駅がそんなですから、そこで働くひとびとのほうも、朝の一番早い時間にはすでに駅でお客様をお迎えできる状態でなくてはなりません。だから彼らは宿直で当番を決めます。昼に出勤してきて、終電を送った後は仮眠を取りつつ朝を迎えるのです。複数人が交代で休みを取るのです。
 とはいえ無人駅ではそうはいきません。駅を開けるも閉じるも駅員がいませんから大変です。だから休みと決めた日は強制的にお休みを取るのです。でなければ贄の羊がくたびれてしまいますからね。
 そういうわけで、今日のわたしはお休みなのです。
 とはいえ、趣味らしい趣味もありません。働いているうちは、休みになったら何事かしたいことを考えているように思うのですが、いざ休みとなるとすることが浮かばないのです。休みの日はたいがいがぼーっとしている間に過ぎてしまいます。お休みというのはこんなで良いのかしら。いいえ、それは良くない、せっかくならどこかへ出かけなくては、とは思うのですが、どうにも頭がうまく回りません。むしろこれも休みと思えば休みなのだ、と思えばこそ気が楽になります。
 だからわたしはもぞもぞとベッドを抜け出して、離れのテラスへ朝食のセットを運ぶと、起き抜けのぼんやりとした頭でお茶を飲みます。
 離れ、というのは宿直室のことです。とはいえ、宿直室とは名ばかりです。そもそもこの駅というのは無人駅ですから、あるにしても券売機と改札くらいしかないのです。でもそれでは不便ではないですか。だから駅のすぐ裏手に建ててしまいました。なにって、宿直室をです。
 でも名ばかりですから、「室」とついているのに見た目は小屋です。小さいとはいえ風呂や台所のついている小屋なのです。おままごとのようですね。だからわたしは宿直室ではなく「離れ」と呼んでいます。なんのお話でしたでしょうか。お茶? ええ、お茶は甘いものなので砂糖を入れると疲労回復効果が見込まれますよ。わたしは白い角砂糖が好きです。歯を立てるとさりさり崩れる角が好きなのでよく食べます。お休みですから好きなものを食べてもいいのです。
 でもそうですね、掃除くらいはしておきましょうか。前の休みからこの方、掃除らしい掃除をしていません。扉と窓を開けて風を通します。このあたりの昼間は霧ばっかりなので、窓を開けると家の中がもやっぽくなるのですが、家の中が森の奥に来たような感じがしてわたしは好きです。だから平気です。掃除をします。いらないものは全部捨ててしまいましょうね。
 さて、お休みの日は静かです。駅は閉めていますから人は来ません。音楽でも流しましょうか。テレビでもつけましょうか。人間はそういうものが好きなので娯楽として調達したのですが、わたしは見たいものも聞きたいものも浮かばないので、静かなのは好きです。うんと耳を澄ませば、遠くにお囃子の音が聞こえる気がしますが、本当はお囃子がここまで届くことはないので気のせいです。わたしはただ、知識としてそれを知っているから聞こえている気がするだけです。
 ここにはなにも起こりません。たとえば誰かが戸口を叩いたとしても平気です。もうそろそろのはずです。もうそろそろの気がしたので、わたしは掃除をやめてすべての戸を閉め、室内でじっとしていることにしました。だってお休みですから、誰にも見つかってはいけないのです。誰かが戸口を叩きます。
 はい誰ですか、と答えます。
 扉の向こうの誰かは黙っています。不気味です。でもだからといって開けて出てはいけません。好奇心を刺激して猫を殺すのが連中の手なのです。わたしもそれをよく知っています。だからじっとしています。案の定、痺れを切らしたのは向こうのほうでした。
「はすみさん」
 戸口の向こうで誰かがそう呼んでいます。
「はすみさんはいますか」
 呼ばれている気がするのは、それがわたしの名前だからです。
「はすみさん」
 その声はおそらくわたしの家族か、友人か、あるいは全然知らない人たちです。でも本物ではありません。十一匹のヤギのお話です。悪いオオカミは母親ヤギの真似をして、お留守番の子ヤギたちに戸を開けさせるのです。そうやってまんまと戸を開けさせて、子ヤギを食べてしまうのです。だから声に応じてはいけないのです。だからわたしは答えません。するとその誰かは再び戸口を叩きました。なんだか切羽詰まっているような叩き方です。再び誰かが戸口を叩きました。
「はすみさんはいますか」
 おりません、とわたしは答えます。渋々です。仕方がないのです。これでどうか帰ってくれないでしょうか。わたしは戸口の前で耳をそばだてます。戸を叩かれたら怖いのでこっそりとです。出てはいけないと強く言われているのです。
「はすみさんはいますか」
 また同じ質問です。ひとがいないと言っているのに、なんなのでしょう。話を聞いていないのでしょうか。わたしが黙っていると、ずいぶんと長い間を空けて、戸口の向こうにいる相手はやっとあきらめたようでした。
「はすみさんは、いませんか」
 とぼとぼと気落ちした背が去っていくのがわかります。なんだかかわいそうな、帰りたいような気はしましたが、開けてはいけないと言われているので開けるわけにはいきません。残してきた影を追ってはいけないのです。
 いませんよ、と答えます。
 もちろん影が完全に消えたのをうかがってからです。
 しかし落ち着く間もなく、次の足音が向かってくるのを感じます。なんなのでしょう。今日はお休みだというのに。いったい誰なのでしょう。声は言います。
「きさらぎさんはいますか」
 さっきとは別な声でした。今度はノックもなにもありませんでした。ぼそぼそと低い声なので、わたしは最初、足音は気のせいで、どこかから風の音がささやいているのだとばかり思いました。
 でも声はたしかに言ったのです。
「きさらぎさんはいますか」
 いません、とわたしは答えます。けれど扉の向こうの誰かは、扉一枚を隔てたところで、じっとこちらの気配をうかがっているように思われます。
「あがってもいいですか」
 いいえ、困ります、とわたしは答えます。
「では遠慮なく」
 止める間もありません。
 戸口の向こうの誰かは扉を開けてしまいました。
 駅員です。
 ここは離れとはいえ駅ですから、やってくる電車や駅員を拒むことはできません。帽子の頭が戸口をぬっとくぐって入ってきます。顔色の悪い駅員です。背の高い駅員です。帽子の下の目がこちらをじっと見ました。頭上から値踏みをするような目。獲物を品定めするような視線です。わたしは嫌いです。
 駅員はこちらに向けてなにかを突き出しました。黒いビニール袋、中は液体なのでしょうか、よくわかりません。それはたぶんわたしに受け取れということなのでしょうが、わたしが部屋の隅から動かないのを見て取ると、駅員はずかずかと室内に入って、袋を机の上に置きました。袋は机の上でどぷんと平たくなりました。袋の口は縛られているようで、中のものは漏れてきません。
「もうそろそろだと思いましたので」
 と駅員は言いました。なにがもうそろそろなのかわかりませんが、もうそろそろというのであれば、もうそろそろなのでしょう。駅員は事務的な報告をするような調子で「生絞りです」とも言い添えました。「昨日絞ったばかりです」とも。
 そうなのでしょうね、と言いたい気持ちをわたしはこらえました。
 血まみれです。ビニールを置いた駅員の手は、手のひらと言わず手首まで、いいえ、もっと言えばその先の腕から肩から帽子から胸元から、血まみれです。血まみれなのです。そして駅員は血まみれの身体と駅員服で椅子に腰かけたのです。そこは今朝のわたしが掃除をしたばかりの場所です。ひと心地ついたかのように血まみれの駅員帽子を外して置きました。それは今朝のわたしが拭き掃除をした机です。
 怒っているかと聞かれれば、答えは「いいえ」です。怒ってはいません。でも机が血で汚れてしまいました。怒ってはいませんがむっとします。その感情が伝わったのでしょうか、駅員は血に濡れた駅員服をぬるりと撫で、それから席を立ちました。それでも出ていくそぶりはありません。奥へと向かって行くではありませんか。
 血まみれです。困ります。
「ちょっとお借りします」
 なにをですか、と問う間もなく、駅員は風呂場へ消えました。
 わたしは女性です。(女性ですか?) 少なくとも肉体においては異性です。(そうなのですか?) 少なくとも客人の入浴中は席を外すほうがいいでしょう。(それはそうです。) ではそうします。外がいいでしょうか。散歩でもしましょうか。

 とはいえ、外にはなにもありません。
 無人駅ですから人もいませんし、あたりは霧です。駅の周りは山と草と線路くらいしかありません。
 あんまり遠くへ行くと迷子になってしまいます。線路へ沿って歩きましょうか。いつかそうしたように、線路を沿って歩きます。とぼとぼと歩きます。途中で公衆電話を見つけたので、受話器に耳を当ててめちゃくちゃな番号にプッシュします。たまにつながることがあるので楽しいのです。でも残念ながら今日は誰も話し相手になってくれないようです。仕方がないので歩きます。
 電車は来ませんよ。今日はお休みですから。
 でも遮断機の音がどこかで鳴っています。反対側の方向からです。カンカンカンカン、と。わたしはあれが嫌いです。いくらお休みとはいえ駅へ入れてはいけないものです。向こう側へ渡らせてはいけないものです。なにって、足のない生き物が立つでしょう? 腕のない、まっぷたつが這うでしょう? あのひとたちは、自分が繰り返していることを知らないのです。停滞しているわたしと違って、死を満足に実感できていないのです。だからあんなにも死にたがる。かわいそうなひとたち。
 でもわたしは平気です。祭太鼓やお囃子の音が近づいてきています。あれが鳴っている限り、遮断機は降りないのです。トンネルがあります。トンネルに入るとゴーっと音がして、線路は続いています。電車は来ません。もやのような霧は薄らいでいます。ほんの少しですが。
 ―いまなら逃げられる。
 声がしました。それはわたしの内側からする声でした。わたしは逃げなければならないと告げています。本当でしょうか。そんなことをしても意味がないのに。
 気づけばわたしは駆けだしていました。
 線路に沿って、トンネルの向こうへと。
 たしか、電車に乗ってここへ来たのです。あれは―夜の遅くに、いつも通勤に使っているはずの電車がまったく駅に停まる気配がないので、おかしいと思ったのが始まりだ。他の乗客はみんなうたた寝をしていて、しばらく我慢して乗っていたが怖くなって先頭車両を見にいった覚えがある。やっとのことで停車した駅も知らない名前だ。仕事の疲れで、電車を間違えてしまったのだろうか。仕方がないからここで降りて、帰りは線路を歩いて帰ろう。家族に連絡して迎えを頼んで、途中で合流して拾ってもらおう。そう思って私は線路をたどっていまのように線路を線路線路線路線の向こああああああああああ

 あっ、

 と思ったときにはもう遅く、わたしの身体は盛大に前にのめっていました。無我夢中で走っていたせいで、足がもつれたようです。線路に沿って敷かれた冷たい砂利の上に倒れ伏せっていました。
 咄嗟のことに受け身なんて発想が持てませんでした。おかげで手のひらの皮がめくれてしまいました。たぶん膝もすりむいています。とても痛いです。わたしの身体は生きているので、なんだか涙がこみあげてきました。涙は痛みのためばかりではありません。わたしはわたしのことがかわいそうに思えてきたのです。結局のところ、どこへも帰るところなんてないのです。線路はどこへもつながっていないのです。電車はわたしをどこへも連れて行ってはくれないのです。
 その証拠に、もうずいぶん歩いて遠くへ来たはずが、戻るときはさほどではありません。来た道を線路沿いに沿って歩けば、ほどなく元通りの場所です。
 駅の名は「きさらぎ」。
 ホームにプレートが立っているのが見えます。
 でも電車は来ません。お休みというのもありますし、まだ夜と呼ぶには早い時間です。わたしは離れの戸を叩きました。返事はありません。誰もいないのだと思って中に入ると、あの駅員がいました。それもなんだか悠々と過ごしています。自分の家であるかのようです。椅子に座ってコーヒーなんて飲んでいます。しかもわたしの分はないようです。
 駅員はわたしの存在を認めると、
「きさらぎさんはいますか」
 と、ここへ来たときと同じ問いを繰り返しました。
 いません、とわたしは答えます。今日はお休みの日です。正直に答えています。
 それなのに駅員は重ねて尋ねます。
「きさらぎさんはいますか」
「ええ。いますよ」
 と、今度はあのひとが答えました。わたしは思わず戸口を振り返りました。さっきわたしが入ってきた戸口です。閉めたはずの戸は外へ向かって放たれていました。かえってきた。あのひとがかえってきたのです。わたしはもうどうにも立っていられなくなり、膝からふっと床に崩れ落ちました。恐怖からではありません。敬意と畏怖のあるがゆえにです。贄の羊はかんなぎです。それは当然の反応です。
「お休み中のところすみません」
 駅員はなんとも思っていない声の調子で言いました。言葉の内容に反してまったく悪びれる様子がありません。
「それ、本心で思ってますかぁ?」
 わたしは茶化すように言いました。
「猿夢さんのことですから、どうせそんなことイっ! ……っててててててて」
 立ち上がろうとして、わたしは大げさにうめいて膝を押さえました。外で転んだ傷です。それが痛みを主張してきたのです。さっき膝から床についたのですから当然といえば当然でした。わたしは駅員に向かって眉をひそめてみせます。
「まさか猿夢さん、私のいない間によからぬことを」
「……」
「なんちゃって。嘘嘘、嘘ですよ〜!」
 とわたしはけらけら笑います。こちらを見る駅員の目はあの値踏みするようなものではありませんが、怖い目をしています。それでもわたしは気にしません。
「遊んでて足を引っかけちゃったのかな。はすみさんってばおっちょこちょいなんだからもう。……ほら、かわいそうに。痛かったでしょうに」
 そう言って、わたしの手はわたしの膝にあるべき傷を、服の上から愛おしそうに撫でました。親が子を慈しむような優しい手つきに、されている側のわたしはくすぐったいものを感じます。駅員のほうでは別になんとも思っていないのか、特になにも口を挟みません。
「あっ、コーヒー、もしかして自分の分だけですか? 私の分は?」
 問いながら、最初から期待なんてしていなかったのでしょう、わたしは膝の痛みなんて忘れた調子で立ち上がり、ポットを火にかけました。ミルクを出すために冷蔵庫を開けると、黒いビニール袋が冷蔵庫の真ん中の段に入っていました。あの駅員が持ってきたものです。わたしはそれを見ながら「いつもすみませんねぇ」と駅員に礼なんて言っています。
「……きさらぎさんのところは、相変わらずちゃんとしているようで」
 駅員がぼそぼそとこぼした言葉の意味は、わたしにはよくわかりません。それでもわたしは自信満々に胸を張りました。誇らしげに言います。
「うちはクリーンかつホワイトなので! いまの世の中、従業員にはきちんと休みを取らせないとですから。だから駄目ですよぉ、猿夢さんとこもちゃんと休暇を取らせないと。だって、どうします? 猿夢さんとこの小人たち、ストなり謀反なり起こしちゃったら。猿夢さん朝起きたらぐるぐるガリバー磔の刑みたくなってたりして」
「心配しなくても、全員死にましたよ」
 駅員はコーヒーをすすりながら言いました。
「前に言いませんでしたか。妙な坊さんが乗り込んできて、全員殉職です」
「いやいや妙な坊さんってそんな……猿夢さんともあろうものが、高野の聖かなんかでもうっかり乗せちゃった感じですか? それか乗客が泣きついてゴーストバスターでもつれてきたかな」
「まさか」
「じゃあその坊さんってどうやって乗り込んできたわけですか? 猿夢さんとこって、あれですよね、入口は悪夢経由でしか入れないでしょ。実際、どんなだったんですか?」
「どんなもなにも、一瞬です。今夜は後部車両がやけにうるさいなと思ったら、光って、半壊でした」
「あ! それ、噂の『寺生まれのTさん』ってやつじゃないですか? ほらほらぁ、道場破りじゃないですけど、私たちみたいなのが仕事してると『破ぁ!』ってやるやつですよぉ。いいなぁ、生『破ぁー!』、私も見てみたいんですよね。うちにもこないかなあ」
 わたしはなんだか嬉しそうにぴょんぴょん跳ねます。彼らの話している内容はわたしには少しもわかりませんが、わたしが楽しそうでなによりです。
「じゃあじゃあ、猿夢さんっていまはアナウンスしながら実務もやってるんですか? うへぇー、そいつぁ大変ですねぇ」
「ほぼ開店休業状態ですから」
「じゃあ、今夜は……」
 次第にわたしがわたしである実感が薄れていきます。だってわたしは飲み干してしまったのです。冷蔵庫の中身、ビニール袋の中のもの―マグカップに注がれた液体。スイッチを切るように切り替わればわかりやすいのですが、実際にはそううまくいきません。わたしはわたしであることから逃げられません。わたしは本当はわたしの意志など関係ないのです。だから電車はわたしをどこへも連れて行ってはくれないのです。だってそうでしょう。電車は駅から駅へ乗客を運ぶもの。駅そのものになってしまったものを、誰がどこへ連れ出してくれるというのでしょうか。
 ああ、そうこうしている間に夜です。夜が来ます。
 駅というのは忙しいですね。ええ、特に夜には忙しいのです。
「だって、わたしはきさらぎ駅ですものね。
 ……なぁんて」





「迷走するバニー・フォレスト」
(あるいは「きょうせい」)了



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