百年の夢うつつ



 少年探偵が眠ってから百年の時が経ち、怪人は今日も朝食をトレーに載せて少年の元を訪れました。それが日課なのです。もちろん少年は眠っていますから、運ぶのは自分の分だけです。ベッドの横に専用の机と、座り心地の良い椅子を用意してあって、怪人はむしゃむしゃと朝食のサンドイッチを食べます。食パンにハムとキュウリを挟んだだけの簡単なサンドイッチです。それがたまに、エビと卵を挟んだのになったり、パンではなく米のご飯になったり、朝食ではなく昼食になったり、あるいは夕食になったりする他は、特に大きな変化もなく過ごしてきました。平穏な日々にはさして語ることもありませんから、怪人のほうでは少年探偵に何か話しかけるでもなく、ただ朝食を食べるためだけに足を運んでいるのです。それはたとえば、何もかも寝静まった夜に暖炉のそばで本を読んだり、テラスの下の噴水を眺めながら煙草を吸ったりと、そういったものと変わりません。ただの日課です。少年探偵はすやすやと眠ったまま、この百年間、一度たりとも目を覚ましませんでした。
 とはいえ、彼らはつかず離れず百年を過ごしたわけではありません。最初の三年ばかりは怪人も、この名もない少年探偵が一向に目覚めないのを放っておけず、それなりに面倒を見て過ごしました。しかしいくら熱心に面倒を見たところで、頬のあたたかみと胸の上下以外は、変化がないのです。尽くしがいがないのです。まったく事態が変化しないのです。さながら等身大の石像を世話しているようなものでした。それで四年目の午後に、怪人は少年を置いて探偵事務所を去ることにしました。どこか当てがあったわけではありません。けれどもこの怪人は何をやらせても器用で奇抜で、大抵のことはできてしまうものですから、そこへ行ったって大抵のことはやりおおせてしまうのです。そうやって顔もなく過ごして何年、何十年になりましたか、怪人は再び怪人として探偵事務所に戻りました。何もかも、すっかり飽きてしまったのです。刺激がなくなってしまったのです。最初は面白くてもすぐに張り合いがなくなって、退屈で、何をやっても大抵のことはやりおおせて、それでいて自分が一番やりたいことだけが果たされていないというもどかしさばかりが募るのです。
 何十年も主のいない事務所は荒れ放題で、そんな中でも少年探偵だけが我関せずといった様子で変わらずに眠りこけていました。ただし、ベッドのほうは駄目です。四つの足がぜんぶ腐って倒れていましたし、白かったシーツもボロ布を通りすぎてもはやホコリのかたまりです。怪人も、かつての仇敵をこんな状態で置いておくのはさすがに可哀相になって、灰色になった肌を綺麗に洗い、事務所のほうも長い時間をかけて元通りに戻してやりました。それがたしか、少年が眠ってから七十五年目あたりのことです。後はずっと今日までこのとおりです。
 百年。
 そうは申しましても、本当に百年もの時が過ぎたのかどうか。本当はいったいどのくらいの時が過ぎたのか、実はもうよくわかりません。時計は狂って久しく、朝な夕な日は上がり下がりしていますが、時が同じように流れているのかどうかを確かめるすべがないのです。
 怪人のほうでも、五年目から後はとっくに数えるのを止めていました。百合の花でも咲いてくれれば百年目を知れようものを。そんなものが咲く気配はいっこうにありません。少年探偵はすやすやと寝息を立てています。
 あるいは童話のように、王子様でも白馬でも何でも現れて、お姫様の眠りを覚ます口づけとやらをぶちかましてくれればいいのですが。もちろん白馬の蹄どころか、乞食のすり足ひとつ聞こえてきません。少年探偵の眠りは穏やかで、寝返りもなく夢の中です。いっそ同じ夢を見られれば退屈もしないものを、少年探偵は薄情にも怪人の夢に一度だって立ち寄りはしないのです。眠っている間の少年探偵は、枯れもせず、ひび割れもせず、生きているそのままのりんごほっぺをまるまるとさせて、ただ眠っているだけなのです。
 それでもう、百年。
 おそらくはもう、百年。
 だからといって少年探偵が起きてくる気配もありません。怪人のほうでもこの少年を起こすために、ひととおりのことを試してみました。その結果わかったのは、自分は王子様の役どころではないということ。なんにでもなれる百面相の怪人と自負するは確か。されども根本のところで彼は悪党なのです。悪人なのです。悪人が聖者を騙ったとて、果たして真実の愛などと形のないものを、いかに盗んでご覧にいれましょうか。それならまだ悪魔の役のほうが演じ甲斐があるというもの。

「勝手なことを。おまえだって、どちらかといえば、悪魔のほうがお似合いじゃないか」
 苦労して呟いた。このごろは、輪郭を保つにも苦労する。

 百年。百年。
 あるいは未だ至らぬ百年を前に。あるいはとうに過ぎ去った百年を後に。血反吐を吐くほどの悲嘆もなければ、胸を焼くほどの恋情とやらも起こりません。悲しいのか、寂しいのか。わかりません。怒っているというのが正しいように思われます。自分たちのことを忘れて、名をはぎ取ってしまった世の中のことを、彼はずっと怒っていました。ただ今となってはどうでしょう。感情は摩耗して、風化して、錆びついて、廃線に打ち捨てられた電車同様にどこへもつながっている気がしません。まったく、穏やかな地獄というものがあればまさにこのことを言うのでしょう。この夢は、まだ朝なのです。暁の星が瞬くにはまだ遠い。ずっとずっと遠いのです。
 まだ百年。
 もう百年。
 どちらを正解と感じるのが正しいのでしょうか。どちらが正しかったところで同じです。朝だというのに、少年探偵が目を覚ます気配はありません。それで仕方なく、顔のない男は眠ることにしました。少年探偵にならって少しだけ、眠ることに決めたのです。思えばここへ来てからというもの、眠ったことがないように思われました。目を閉じたって本当には眠っていないのです。朝のシーツはどこか冷たく、硬く沈んで、そろそろ冬布団を出してやる頃合いかもしれないな、と少しだけ頭をよぎりましたがそれっきり。あとはもうそれっきり目を閉じました。





 なんでひとのベッドで寝てるんだ、いつの間に潜りこんだんだ。そう呆れながら怒る声に揺り起こされたときには、まだ夢を見ているものと錯覚した。夢といわずとも幻覚や錯誤や幻聴は年々存在を増すばかりだったから、今度のもそうに違いない。そう決めつけて開けたまなこの目の前で、少年はううんと伸びをした。パジャマの肩を重そうに揉みながらほぐし、あああ、駄目だ、丸一日くらい寝過ごしたみたいな、と言うものだから笑ってしまった。一日どころじゃない、百年眠ってたんだから当然だ、と言ってやると、少年はだからなんでここにいるんだ、と不信感たっぷりに睨みつけてきた。
「鍵がかかってただろ。開けたのか」
「鍵なんてかけたかな」
「かかってたよ。寝るときはいつも、……ああ、いいや。どうせきみにはあんな内鍵くらいかかってないのとおんなじだろうね。だけれども、侵入してやることがこれじゃ、不審者と同じじゃないか。僕はそういうの、どうかと思うナア」
 とここで大きくあくび。少年は途端に勢いを落として、次のあくびを噛み殺しながら言った。言った。声に出た。肺に空気が通り喉が震え舌が動くと同時に唇が開いて、やっぱり、と言った。
「やっぱり人間、朝起きたときが朝、みたいな生活は良くないなあ。目覚ましでも置こうかな。たしか列車に、修理すればまだ使えそうなのがあったと思うけど、置いてきたっけ。覚えてないや」
 半分は独り言のように。今度は首が痛むのか両手でマッサージをしている、指の、手の甲の骨が動きにあわせてリズムよく、なめらかに動く。指が、もみ込む指が白と桜色との間を交互に変わって。肺へ空気を送り込むだけの役目だった首が、ぎこちなく左右に傾げられ。
 気づけば腕が、さながらラリアットのごとく横へ飛び、そのまま少年をベッドに引き倒していた。まったくの無防備だった少年は目を白黒させたあと、ぎょっとした様子でひとしきり暴れて文句を言った。が、言って、もがいて、あきらめて、枕に頭を預け、どんぐりのようにくりくりとした目で顔を――顔のない顔を、じっと見つめた。
「で、今日は先生の顔じゃないんだね。変装、寝るたんびに落としてるのかい」
「どうだったろうな」と返す。身体がひどく億劫で疲れていた。たしかに少年が言ったように百年も同じ体勢で眠ったら、このくらい疲れていても不思議ではないのかもしれない。「どんな顔だったか忘れっちまったよ。何せもう何百年も顔を拝んじゃいない。やつめ、とうとう最後まで姿を見せないじゃないか。おまえの寝ている間に何度顔を変えたか。答え合わせする相手もいないんじゃ、張り合いがない。つまらないよ」
「意外だなあ」
「ならどうする」
「どうにも。だってきみ、ひとりでも大抵のことはやりおおせちまうだろ。それなのに、そんなに寂しがり屋だったかい」
「そうだよ。だからおれにもっと顔を見せてくれ。百年ずっと寝顔しか見てない」
「一晩中ずっと見てたのか? ……不気味だなあ」
「だって百年だ」
「ほんの一晩だよ」
「百年だ。百年も、きみ、待っていられるか」
「百年ぽっちなら」
「……」
「待ったっていいよ。それで先生がお戻りになられるってんならね」
「なにが百年ぽっちだ!」
「百年はそっちが言い出したんだろ」
 少年は呆れた顔でするりと腕から抜け出した。長らく横になっていたとは思われない軽やかさで、とん、と両足で立ち、うんと背伸びして肩を回し、両手で勢いよくカーテンを開けた。小柄ですばしっこいリスのような少年探偵は、朝日の下にあってきらきらと光り輝いた。形もあれば影もある。枯れもせずひび割れもせず、りんごほっぺに枕のあとを少しだけ残して、パジャマ姿で腰に手を当て、こちらを見下ろしている。
「で、いつまでここにいるつもりなんだい? 不貞寝するんなら自分の部屋にしてくれよ」
 言うことはまったくかわいげがない。
 顔のない男は――怪人は、無言で枕にうつ伏した。追い出そうとする声を徹底的に無視して「朝食を持ってきてくれたら起きる!」と堂々と宣言した。だって朝だ。なぜなら朝だ。朝食くらいねだったってばちは当たるまい。着替えを済ませた少年が、扉を開けたまま出ていく足音を背中に聞く。百年はたしかに経った。いいや、おまえが夢から覚めたから、百年のほうが夢になったのだ。百合の花が咲くよりもずっとわかりやすく。そんなことは言うまでもない。だから言わない。これは秘密だ。これは秘密。降って湧いた感情が朝ににじむ。うつ伏せで、しばしまどろむ。
 百年はもう、過ぎていた。





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