『不在の探偵』02



 たとえば、忘れられた町の忘れられた路地を進んだ先に、いかにも世の中から忘れ去られたといったふうな建物があったとする。四角いビルが二階建てだか三階建て、あるいは五階建てくらいはあるのかもしれない。平屋ではなかったはずだ。壁は煉瓦だかコンクリートだか、あるいは木造か、おおむねそんなところだ。なんならビルでなく洋館でもいいのかもしれない。だが大理石の宮殿のようにおおげさなものを想像されると、後の話に支障が出る恐れがある。だからここでは仮にこれをビルと定めておく。
 そしてここに、少年がいる。美少年だ。これは好みの美少年を想像してくれればそれでいい。ただこの少年は美少女に変装してみせるのが特技だから、あまりに体つきのよい少年を想像すると、これも建物と同じで後々に支障が出るかもしれない。もちろん、それこそが好みということであれば止めはしないが。年の頃はおおよそ少年と呼ぶべき頃合い、服のほうは美少年に着せるべき服装だ。
 少年は慣れた様子でビルの入り口を抜け、エントランスから階段を上っていく。目的地は決まっている。階段を上がった先にある扉だ。木彫りでも磨りガラスでも鉄扉でもなんでもいい。
 その扉の前で、少年は立ち止まる。
 紅顔の美少年と呼ぶにふさわしい横顔にはやや緊張の面持ちか。ひとつ息を吐き振り払う。軽快にノックをしてから、少年は挨拶とともに扉を開けた。

「おはようございます」
「やあ、もう来る頃だと思ったよ。おはよう河原崎くん」
 そう言って挨拶を返したのは、少年の師である探偵先生そのひとだ。
「朝の一杯はやはりこれに限るね。きみもひとついただいたらどうだい」
 窓の側に立つ先生が、手に持ったカップを浮かせる。
 少年のところにも遅れてコーヒーの香りが届いた。
「ええ。僕も一杯いただいてもいいですか」
「もちろん。コーヒーには脳の働きを良くする作用があるからね」
 と切れ長の眼が朗らかに笑う。
 少年は軽く微笑んで返し、ふと応接机に目をとめた。書類の束が無造作に置かれていたのだ。
「今日はなにか事件でもありましたか。――ああ、自分の分くらい自分でやりますよ。先生、どうぞお構いなく」
「なに、すでに淹れてあるものを注ぐだけだ。それにぼくもたまには可愛い一番弟子を労わないといけないからね。やらせてくれ。それよりなんだったか――そうそう、事件ね。古い事件簿を整理していたら興味深い事件を見つけてね。退屈しのぎに読み返していただけさ」
「そうでしたか」
 と書類を眺めるそぶりをしつつも、少年の視線は男のほうへと向けられている。たっぷりの砂糖とミルクを入れ、スプーンでかき混ぜる男の手指はどちらかというと青白く、蜘蛛の脚のように長い。美少年らしく白い肌の少年は、丸い目をくりくりさせて男のほうへ向き直った。
「どんな事件なんですか?」
「ぼくの口から聞きたいのかい?」
「ぜひ聞きたいです。先生さえよければですが」
「……いいとも」
 と男は少年の分のカップを机に置いた。自身はそのまま机の反対側へと回り、革張りのソファに深々と腰掛ける。そうやって話の体勢を整えたというのに、いまだに立ったままでいる少年へ、「冷める前に飲みたまえよ」とわざとらしい身振りで着席を促した。

「さて、」
 と少年が座ったのを見届けてから男は言った。
「事件はとある屋敷町で起きた」
 男は俯いた拍子に落ちてきた、黒い蓬髪を後ろに撫でつけた。
「老婆が殺害され、彼女が隠し持っていた財産が何者かに盗まれたのだ」
 背広の腕が胸の前で組まれた。質の良い仕立ての、漆黒の背広。
「容疑者は二人。ともに学生で、一人は老婆の家に下宿していた男、もう一人はその男の学友で、事件当時に出入りしていたことが確認されている」
 と、指で顎をなぞる。薄い唇から低く落とした声が言う。
「警察のほうでも、状況からしてこの二人のうちのどちらかが犯人だとは目星がついていた。だがいったい彼らのうちのどちらが犯人なのか? それがわからない」
 にこにこと朗らかに話す口の端がにんまりと笑む。
「そこでとられた方法がなんだったのか、きみ、わかるかね?」
「いいえ」
「ちっとも?」
「僕にはとても」
 少年もまた男と同じようににっこりと微笑む。冷静に観察するその目を、気取られてはならない。はぐらかすようなその態度に、男はそれまでと打って変わって肩をすくめた。
「困るな河原崎くん。きみはさっきからぼくのほうばかり見て。この名探偵の一番弟子を名乗るからには、このくらいの事件は簡単に解けてもらわないと」
「まだ事件の状況がつかめていませんからね」と少年。「たとえば老婦人はどのように殺されたのですか? 警察はなぜ二人のどちらかが犯人だと特定したのです? でも、そうですね。その状況でできること、たとえば取り調べの方法を工夫した、でしょうか。犯人が自分から犯罪を自供するような状況を作ったのです」
「ほう、しかし犯人がそう易々と口を割るものかね」
「もちろんそう簡単には話さないでしょう。けれどもです、いかなる場合においても犯人は自分が犯人だと知っているはずです。だとすれば、犯人にしか知り得ない事実がある。そこを慎重につぶしていくのが、尋問の初歩的作法というものでしょう」
「それはそうだ。だがね、この事件の犯人は極めて頭の回る人物だったのだ」
 と、頬杖をつく。ただでさえ上背のある男が、座面とほぼ同じ高さにある机に肘をつくのだから、ほとんど少年を覗き込むような体勢だ。
「たとえば仮に、尋問されることは予想済みだったとしたらどうだね? 自分が容疑者として引っ張られることは覚悟の上で犯罪にのぞんだのだ。内容をあらかじめ頭の中へたたき込んでおけば、なにを聞かれても動じることはない」
「それでも穴はあるでしょう」
「その穴とはなんだね」
「この場合はおそらく、動じなさすぎる、というのが穴なのでは?」
 少年はこちらを探ろうとしてくる目を、真っ向から覘き返した。
「ふつうの人は容疑者として取り調べをされたら冷静ではいられないはずです。動揺を隠す余り、あらぬことすら口走るでしょう。普段であれば答えられることでも思い出せない、答えられないかもしれません。犯人は必ず自分が犯人だと知っているのです。もしここで穴のない答えが返せたのだとしたら、疑ってみるべき材料のひとつにはなるのではないでしょうか」
「なるほど」
 とまばたき一つ。
 ぱっと顔を輝かせ、万歳するような体勢でソファーの背に沈み込んだ。
「さすがは河原崎くんだ! ぼくの助手にしておくにはもったいないねぇ」
「まさか、さっきので正解だったんですか?」
「うん? ああ、まあ、大体そんなところだろう」
 あとは資料を読んでくれ、と言わんばかりに両手で髪を掻き上げる。少年は机に散らばったままの書類に目を落とし、それから再び男を見た。
「興味深い事件、だったんじゃないんですか?」
「ああ、それね。年のせいかな、どうも気のせいだったようだ。どんな小細工を用いたところで、所詮は金目当ての人殺し。そんなものどうだっていい。それよりきみ、いやあ恐れ入った。あっぱれな推理じゃないか! どうだい? このままこの探偵事務所を継ぐというのは」
「そんな、僕には先生の代わりなんて務まりませんよ」
「遠慮することはない。そのほうが探偵(ぼく)も喜ぶさ」
 にこにこしながら男が言う。
「この事務所の将来も安泰だね」
 と自分のカップを手に取ろうとして手を伸ばす。が、すでに中身は空だ。
「よかったら僕のをどうぞ」
「え?」
「まだ口をつけていないんで、よければどうぞ」
 少年もまたにこにことして言った。
 さあ、と勧めるのは男が入れてくれた、ミルク入りのコーヒーだ。置かれた場所から一ミリも動いていないカップをくるりと回し、持ち手を男に――いままさに立ち上がろうとしている男のほうへと向けた。
 そんなに驚いた顔をするなよ、僕が気づいていないと思ったのか? おまえがちらちらと、いつ僕がカップに手をつけるのかと伺っていたことくらいお見通しだ、とは言わない。かわりに、冷静に言葉を続ける。
「折角入れていただいたのに申し訳ないんですが、僕はコーヒーにはミルクも砂糖も入れないんですよ。子供だと思って気をつかったつもりかい?」
「ああ、コーヒーか。それは悪かっ」
「それに先生は、」
 相手を追い詰める。あくまでも冷静に、普段どおりに。それが少年の思う探偵像だ。だから少年はあくまでも冷静に、にっこりと微笑んだ。
「先生はコーヒーのことをちょっとだけ濁らせて言うんだ。カーフィーだとかカフィーだとか、エフのところで少し唇を噛む。英国訛りなんだろうね。コーヒーとは発音しない」
「……」
「あと本物の先生は朝の一杯は必ず紅茶だ。コーヒーは飲まないよ」
「……」
「さあどうぞ先生。毒でも入っているんじゃあるまいに、遠慮なさらず」
 と少年は手のひらを向けてカップを勧めた。そのわざとらしい仕草に、男は眉間に皺を寄せたが、次の瞬間には何事もなかったかのように快活な笑い声を上げた。
「ハハハ……なにを言うかと思えば河原崎くん。冗談はやめたまえ。きみが腕っこきの探偵だということは認めよう。偉いねえ。だがそう活躍を焦るものではないよ。いったいぼくがぼくでないとしたらだれだというんだい?」
「僕がそれを言ってもいいのかい?」
「なんだかきみの口振りには思い出すところがあるなァ。だれに教わったんだい?」
「おっと、妙な真似をするなよ」
 すっとソファから立ち上がった男に、少年は隠し持っていたピストルを突きつけた。手のひらに収まるだけの大きさだが、それは確かにピストルだ。
 男はいかにも驚いたというふうに目を丸くした。
「おいおい河原崎くん、そんなものまで持ち出して危ないだろう。きみとしたことがどうしてしまったんだ。冗談にしてはやりすぎだよ。それともきみはこのぼくを撃つつもりかい?」
「撃たれたくなかったら両手を上げてさがるんだ。逃げようったって無駄だよ。入り口は僕の後ろだし、僕が合図すれば待機してある警官隊が突入することになっている」
「警官隊ねぇ」
「試してみるかい?」
「さてね。どうしたものか」
 両腕を上げてじりじりと後退しつつも、男はまったく不遜な態度を崩さない。
「こんなところでピストルなんて出していいのか? だれかに見られたら言い訳できないぜ」
「どうとでもなるさ。僕はまだ子供で、そっちは先生になりすました不審者だもの」
「おやおや、ずいぶんな減らず口じゃないか。無抵抗な相手を武器で脅しておいて、粋がるのもそのへんにたまえ。だがどうやら運は僕に向いているらしい――ほら!」
 男は声とともに突然、バン、と床を踏みならした。
 ガタン、と少年の後ろで音が鳴る。
 警官隊はもちろん少年のハッタリだ。
 ではだれが、と少年の気が逸れた。その一瞬だけで十分だ。
 扉の前に転がる杖――少年がそれを認識したときにはすでに、背後でカチリと硬い鉄の音がしたあとだった。
「……あらかじめ、少しの振動で倒れるように細工してあったのか」
「フフフ、悔しがっているようだねえ。どうやらこれで対等だ」
 少年が歯噛みして振り返ると、想像したとおり、男の手にはピストルが握られていた。銃口はまっすぐに少年の頭を狙っている。少年の銃口もまた男に向けられていたが、男のほうでは窓枠に手をかけにやにやとしている。どうやら優勢に立てたのがよほど嬉しいらしい。

――怪人め!」

 少年が憎々しげに吐き捨てると男は――探偵の顔を捨てた『怪人』は、手を叩きださんばかりに喜んだ。まるで待ち望んでいた恋人に出会ったかのようにうっとりと、悦に浸っている。それが予想外に長く続くので、痺れを切らした少年のほうが「おい!」と小声でせっついてしまったほどだ。
「うん? なんだよ人がせっかく気分を良くしているところに」
「じゃなくて……先生! そう、本物の先生はどこにいるんだ?」
「さてね。どっかにいるんじゃないか?」
 その話題が出た途端に興味がなさそうに首を振る。姿形こそさっきまでの探偵と同じだが、口調はやや粗野な色を帯びている。取り繕っても中身は賊。いまもこうして少年に向けてピストルを構えていることからもわかるとおり、先生とは別人だ。
「さて、おれは用も済んだことだしおさらばするとしよう」
「なに? いったいおまえはなんのためにこの事務所へ上がりこんだんだ?」
「それは……」
 と、ここでなぜか怪人の言葉が止まった。
 この次にどれほど恐ろしい台詞を続けるつもりなのか。少年もかたずを飲んで言葉を待った。
 ――相手の目が、本当に言葉を探してさまよっている目だとわかるまでは。
「ど、毒入りのコーヒーを僕に飲ませて、そのあとはなにをするつもりだったんだ?」
「! そうだ、やつに復讐してやろうと思ってね。その、睡眠薬入りのコーヒーできさまを眠らせたあと、さらって、それで人質として使ってやれば、さぞかし溜飲が下がるというもの。さしものやつもきさまの身を案じて、今度こそおれの仕事の邪魔をしなくなるだろう。かわいそうにねえ。きみは人質なんだよ。ハハハハ……」
「な、なんて卑劣な!」
「だがどうもきさまは思った以上に手強いらしい。よって今回はこれにて退散しよう。だが忘れちゃいけないよ。このおれの恨みがこの程度で済むとは思わないことだ。これからもせいぜい気をつけることだね。さらばだ河原崎くん!」
 まくしたてるようにしゃべり続け、怪人はやにわに窓の外へ身を投げた。
「ま、待て!」
 少年が窓辺に駆け寄ったところでもう遅い。怪人はすでに下へ着地し、走り出したところだった。なんと俊敏なことだろう! 見れば窓枠のところから縄が垂れ下がっている。脱出用にあらかじめ結んであったのだ。いまから跡を追ったのではとても追いつけまい。

「…………」

 路地を真っ直ぐに抜けていく怪人の背中へ、少年はピストルで狙うそぶりをした。ふりだけだ。意味はない。あれはとにかくすばしっこいのだ。ここから撃ったって当たらないだろう。第一、弾など入っていないのだ、ふたりとも、最初から。
 少年の顔からすっと表情が消える。

「コーヒー、入れ直すかな」

 そう呟いて、窓辺を離れる。
 カップの中身は宣言どおり一口も飲んでいない。捨てるのはもったいない気はする。だがさすがに、嘘だったのかもしれなくても、睡眠薬を入れたと告白された飲み物に口をつける気にはならなかった。それに馬鹿馬鹿しい騒ぎのおかげで、カップの中身はすっかり冷めてしまった。入れ直したってバチは当たらないだろう。どうせさっき窓から出ていった男も、気が済んだら戻ってくる。
 と、まるでさきほどまでの狂躁が嘘のような落ち着きっぷりだ。
 ご覧頂いたとおり、さっきまでここにいた探偵は偽物である。
 本物の探偵は、
 英国帰りで、
 コーヒーをカフィーと濁らせて呼び、
 朝の一杯は紅茶派である。
 ――などということはない。全部その場ででっち上げた適当だ。一つくらい当たっているものがあったとしてそれは偶然だし、確かめようもない。ついでに少年は『河原崎くん』という名前などではない。捕り物を演じて見せたのも即興だ。
 つまりはぜんぶ嘘、ということである。
「まあ、ぜんぶがぜんぶ嘘ならそのほうがよかったけど……」
 あいにくながらそうは問屋が卸さない。怪人は怪人、少年は少年として探偵事務所に詰めていて、肝心の探偵だけが姿を消している。いつからいないのか、なんてことはだれにもわからない。少年が探偵のことを思い出したときには、探偵はすでにいなかった。怪人もまた少年と同じだという。……が、それはどうだろう。怪人のことだ、こっそりどこかに探偵を監禁しているのではあるまいか。少年のほうではその線も疑ってみてはいるものの、怪人のほうではいまのところ尻尾を出す気配はゼロだ。

 案の定、怪人は三十分後には「さっきのはちょっと雑だったんじゃないか? 探偵だって朝一番にカフィーを飲みたい一日だってあるだろうに」と文句を言いながら帰ってきた。
「そっちだって後半、正体を打ち明けたあとがグダグダだったじゃないか」
 入れ直したミルク入りのコーヒーをすすりつつ、少年も応戦する。
「どこの世界に探偵の助け船で〆の台詞を言う怪人がいるんだよ。怪人ムーブしたいならもうちょっと中身も考えてくれって言ってあるだろ。こっちだって合わせるのが大変なんだから。わざわざ事務所を出て、さもいま来たってていで振る舞わないといけないし」
「そんなこと言って、きみだって楽しんでたろうに」
「どこがだい。こっちは付きあわされて迷惑してるんだ」
「どうだかねえ」
 怪人がじとっとした目で少年を見る。
「だいたい、おれは台詞を忘れたんじゃなくて、どこまできみに話を合わせてやろうかと考えていたんだ。それに腹が減って役に入り込むどころじゃなかった。そこで考えたんだが、今度は食事会の設定でやるのはどうだい。きみは変装して屋敷に潜入したメイドなんていいんじゃないか。髪をお下げにでもして。かわいいだろうねぇ」
 そんなことを、探偵の格好のままのたまうのだ。仮にとはいえ探偵の声と姿でなんて口の利き方なのだろう。少年は呆れて物も言えない。先生がそんなことを言うもんかと食ってかかっていくのも馬鹿らしい。一方で、怪人は少年の冷たい視線になど気にも留めず、脱いだ背広をソファの背にかけ、少年が机に用意しておいた朝食トレーを引き寄せた。

 怪人とは探偵の敵、万事凶悪を為す賊である。その賊がなぜ我が物顔で探偵事務所を闊歩しているのか? また、探偵の助手たる少年がなぜその現状を看過しているのか? 読者諸君におかれてはさぞ不思議な光景と思われるだろう。
 だがこのことだけはよく覚えておいてほしい。
 この物語に探偵は登場しない。探偵はいないのだ。
 怪人と少年――彼らの間にいかなる密約が交わされたのかについては近い未来、たとえばこのページを少しめくったあとにでも明かされることとなるだろう。
 ともあれ日々是好日、これよりは剣呑で胡乱な日々の一端をご覧に入れよう。




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