微炭酸のワルツ (沢村)


会う度に綺麗になっていくと、つくづく思う。
ある時はさらさらの黒髪が、より柔らかく跳ねた。またある時はハミングが、半音高くこだました。そういう時彼女は、決まってあの人の話をする。

「結婚することになったの」
ストローの途中までのぼっていたサイダーが、すとんと落ちる。出入りの激しいラウンジで飛び交う物音も、隣のテーブルで繰り広げられていた噂話も、ミュージックプレイヤーで間違えて一時停止ボタンを押してしまったように忽然と消えた。
「え」
グラスから視線を這わすと、組まれた指の間でシルバーが控えめに光っていた。最後に見た金曜日には何も付いていなかったはずだから、おそらくこの2、3日の間で何かが、あった。今日は月曜日だ。手前の私のピンクのジェルネイルが、ひどく子どもっぽく映った。

私にとって、姉のような存在だった。入隊したばかりの4年前、17歳だった私は年齢的な理由でまとめ役を任されることが多かった。右も左も分からない。技術だって身に付けなければならない。その中で年下の子たちの指導。毎日泣きながら帰る私を拾って相談に乗ってくれたのが、響子さんだった。

「おめでとう、ございます」
「ありがとう。まずはじめに一番可愛い後輩に伝えようと思って」
響子さんは瞳をきらきらと輝かせながら私の手を取った。嬉しいことがあった時にいつも見せる表情。それに合わせるように、にっと口角を上げた。グラスの水滴の粒が心なしか大きくなった気がした。

「仕事もだいぶ落ち着きましたもんね。寿退社ですか?いいなぁ」
「ええ!?辞めないわよ、だってみんなと会えなくなるの、寂しいじゃない」
「いいじゃないですか。だって、家に帰っても会えるんだから」
ほ、ん、ぶ、ちょ、う、と声に出さずに大きく口を動かすと、響子さんは真っ赤にした顔の前で両手を振った。
「ちょっ……なんで」
「バレバレですよ。まず私に教えてくれたのも、そういうことですよね。何年響子さんにお世話になったと思ってるんですか」

◎◎◎

仕事に私情を挟むことを、他人にも自分にも許さない人だった。たとえば、私の訓練が振るわなかった時。響子さんは私を個別に呼び出して、その日学校の友達と喧嘩したことを白状した私に、事実と感情を分けなさいと叱った。確かに響子さんが仕事中に感情的になったところを、私は一度も見たことがない。仕事とは、大人とは。ボーダーの一員として生きていくために必要なことは全て響子さんから教わった。
そのくせ彼女は昔から事あるごとに、恋をしなさいと私に言った。若いんだから青春しなさい。大人になるとそう簡単にできるものではないのよ、と。任務とその合間を縫って机に向かうのだけでも忙しいというのに、なぜ無理難題を押し付けるのか。その訳を知ったのは、響子さんの真っ直ぐなまなざしの先の存在に気付いた時だった。ランク戦と模試の成績が急激に伸びた、高校3年の夏のことだった。


「好きな人がいるの」
大学に入学したのとほぼ同時期にA級に昇格した私に、彼女はそう告げた。
「どうしたんですかいきなり」
「名前ちゃんはもう付き合いも長いから言ってもいいかなって」
「仕事上の守秘義務は守るのに、自分のこととなると随分と緩いんですね」
「ひどーい!名前ちゃんのことを信頼してる証拠なのに!で、名前ちゃんは大学でいい人、見つかった?」
「ご想像にお任せします」

響子さんは隙がないのか鈍感なのか、分からない。ただ一つ言えることは、響子さんは本部長が好きだということ。この年齢にもなってしまえば、噂話の一つや二つ、簡単に入ってくるのだ。それに、いつも話しかけてくる時は決まって本部長とのやり取りについてだった。響子さんは同性の私でも分かるくらい、綺麗になっていった。廊下ですれ違う度に3秒見つめてしまう私を、「ちょっと、見すぎ!」と窘めるのが挨拶代わりになった。


私が成人してお酒を飲めるようになると、響子さんは私を飲みに誘った。私はこの時初めて、アルコールは人の本性を暴くことを知った。仕事で真面目な分の反動なのか、響子さんは飲むとよく泣いた。足元がふらつく彼女を物理的に支えるのが、いつからか私の役目になった。
「しのださん、」
酔っているのか夢の中なのか、彼女は本部長のことを役職名ではなく、苗字で呼んだ。では何故いつも私を誘うのだろう。そんなに公私混同させたくないのか。あの聡明な響子さんを、こんな行動に走らせてしまうのが「恋」だとしたら、恋愛は、なんと不毛なものなのだろうか。怖いのは、響子さんではなく、彼女をそうさせてしまう魔物のような恋そのものだ。

◎◎◎

「名前ちゃんにはいつかちゃんと言っておかなきゃって思ってたんだけどね、ほら名前ちゃんも忙しかったでしょ?それに、正式に決まってからの方が良かったかな……なんて」
響子さんは、出会った頃によく見せたおどけた表情で、ぱちんと両手を合わせた。あの頃は響子さんも、きっと手探りで私を導いていたのかもしれないと、チームをまとめるようになってから気付く。
「一つ、質問してもいいですか」
「ん?どうしたの?」
「私が今まで響子さんに自分の恋愛話をしなかった理由、分かりますか」
「それはもちろん、名前ちゃんが任務と勉強に一所懸命で、恋愛する暇がなかったからでしょう?あれだけ忠告したのに」

響子さんは自信たっぷりに、満面の笑みで答えた。
「その通りです。さすがですね」
私は知っている。響子さんが私に嘘を吐く時は、決まってそっと微笑むことを。その表情があんまりにも可愛くて、その度に私の心はぐしゃぐしゃに壊れそうになる。
「何年名前ちゃんのお世話をしたと思ってるの」
「もう5年近いですよね。おかげさまで、現役上位私立大学生をやりながらA級隊員ですよ」
「偉い偉い。私の可愛い、いちばんの後輩」
今度こそ、サイダーをストローで啜った。生ぬるくて気の抜けた甘みが、喉を刺激した。

◎◎◎

よく晴れた日の、穏やかな午後。かわいらしく髪を飾り、鍛えられた白くて柔らかな肩を晒したワンピースを着た者と、ぱりっとスーツを着こなす者。普段は隊員と呼ばれる者たちが、今日のこの時だけは、着飾って主役の登場を待つ。

「相手が本部長でよかったね」
――うん、そうだね
「本部長補佐って、名前ちゃんの直属の先輩だった人だよね。名前ちゃんもおめでとう」
――ありがと。でも今日は先輩が主役だから

今日は、一点の後ろ暗さのない、祝福の日だ。だからこうして、和やかな笑みをたたえ、時が経つのを待つ。
「お、主役が出てくるぞ」
そうこうしている間に、新郎と新婦がチャペルから姿を現した。ブーケを持った新婦が一瞬こちらをちらりと見たような、気がする。新婦が私たちに背を向ける。ずっと追いかけてきた背中が日の光に晒されて、美しいと思う。そしてその隣には、とても頼りになる、響子さんの大切なひと。今まで見たこともないような優しい表情が、この日までの全てを物語っている。
新婦がほんの少し身を屈めて、腕を思い切りこちらに向けた。弧を描いて飛んだブーケが真っ先に私のいる方向を目掛けて飛んできた次の瞬間には、ぽすりと両腕に納まっていた。攻撃手だった響子さんのことだから狙っていたのかもしれないけれど、どうして。
茫然と視線を泳がせていると、今度こそ新婦と目が合った。


「ごめんね」


響子さんははっきりと、そう口を動かした。眉を下げて困ったように、それでいてくしゃりと笑っていた。やっぱり響子さんは、総てお見通しだったのだ。 私はきっと、一生彼女に適わない。
どうして謝るんですか――声を出そうにも、息が詰まる。それに今言ったところで、一体どうするというのか。全身が固まって、動けない。芝生にヒールが絡みついたように、足下が地面に貼りついている。歓声に包まれる中、ぽつんと一人、立ち尽くしていた。


「私の可愛い、いちばんの後輩」


先輩、私は本当にいい子だったのでしょうか。先輩の枷になっていませんでしたか。もう二度と口にすることの許されない言葉を胸に、去り行く二人を見つめていた。







参照:『盲目的な恋と友情』辻村深月 著




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