曖昧なキスでごめんね(釘)


ワンライ再掲。


つんつん、と野薔薇ちゃん―ご主人様の白いおでこをつつく。これがあたしの一日の始まり。今日は土曜日だから、お日様がかなり高くなったタイミングで行ったのがポイント。野薔薇ちゃんはむくりと起き上がってあたしの額を指でなぞった。おはよお、と言う野薔薇ちゃんの声に反応するかのように大きなあくびを一つ。そのまま台所へとことこと足を運べば、いつもたっぷりのお水と大好きなカリカリをくれる。それをあたしが食べると偉いわね、と喉を撫でてくれるから朝起きたこの時間が一番好き。
野薔薇ちゃんはいつだってあたしに優しい。居酒屋の裏のゴミ箱から残飯の魚を漁っている時に変な化け物に追われていたところを助けてくれて、それからここに住み着くようになったんだっけ。野薔薇ちゃんが帰ってきたときに玄関で待っていればいつも笑顔で「ただいま」と言ってくれることがほとんどだったけれど、ごくたまにすごく疲れた表情をしているときやお腹が痛くてベッドで寝込んでいる時は黙って足元に寄り添った。その度に野薔薇ちゃんは「ありがとうね、あんたがいるといつも心強いわ」と言ってくれるけれど、その程度のことしかできないあたしが少し悔しい。あたしだって野薔薇ちゃんのようにあったかいご飯が作れたらいいのに。でもそれができないから、せめてご主人様の癒しになれたらと足元に擦り寄ったりしてみる。歯を磨き、顔を洗い、メイクをするご主人様をできるだけ邪魔しないように隣で動きを見守っていく。
準備を終えた野薔薇ちゃんはそのまま冷蔵庫から深紅の缶を取り出した。ぷしゅり、とプルタブを開ける音が響くと独特でなんとも言えない香りが鼻腔を満たしていく。ドクターペッパー。あたしはこの香りが少し苦手だから、野薔薇ちゃんから一歩遠ざかった。スマホを覗いている野薔薇ちゃんが一瞬、眉をひそめた。
「ちょっと伏黒、なんで今浦美にいるのよ、埼京線人身事故で止まってるし、これじゃあ渋谷までの道を断たれたも同然じゃない」
困ったなぁ、なんて言いながらドクターペッパーをぐびぐびと流し込んでいく。
「とりあえず先に虎杖と合流ね」
野薔薇ちゃんがバッグを取るために歩き出したのも束の間、手を滑らせたのか空になった深紅の缶がカラカラと床に落ちていく。動いているものは追わずにはいられないのがあたしたちの性分で、缶を追いかけて部屋を駆け回る。缶を捕まえてもころころと動くそれが面白くて動くのをやめられない。じたばたと動き回っていると野薔薇ちゃんにひょいっと抱きかかえられて、大好きなご主人様のお顔が目の前にやってきた。
「こら。これから出かけるんだから、大人しくしてるのよ」
ああ、お出かけ前なのにご主人様を怒らせてしまった。しゅん、と項垂れるとそのまま頭を優しく撫でてくれた。
「いい子で待っていられる?」
もちろんですとも、と言わんばかりに喉をゴロゴロと鳴らすと野薔薇ちゃんは安心しきったのか、首元に顔を埋めて思いっきり深呼吸――巷で言う「猫吸い」――をした。それからあたしと真正面を向くように持ちかえた。
「それじゃ、行ってくるね。留守番頼んだよ」
あたしはただの猫。野薔薇ちゃんを守るどころか、いつも守られているくらいの存在。日中だって一緒にいられない。だからあたしはあたしのできる精一杯を尽くす。野薔薇ちゃんの頬に、ほんの一瞬、口づけた。
「急にいい子になっちゃって」
今日もあたしは、笑顔であなたを見送ります。




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