白鍵と黒鍵の間(乙骨)


ワンライ再掲。


どれだけ歩いたのだろう。辺りはしんとしていて、ひとっこ一人いない。どこかで休もうと思ってふらふらと歩いていると、目の前に楽器屋さん。明かりはついているのに人がいないのはなんだか変で、どこか不気味だった。中に入ると電子ピアノが一台、モーツァルトを奏でている。きらきら星変奏曲。初めて出たピアノの発表会できらきら星を弾いたけれど、たくさん褒めてくれたパパとママはもういない。一緒にお出かけしていたら突然出てきた大きな怪物に食べられちゃって、怖くなって一人で走って逃げた。逃げては隠れてを繰り返していたら、いつの間にか独りぼっちになっていた。怪物に見つからないように、グランドピアノの陰に隠れると、ぐうう、と昼間の黒い空間にお腹の音が響いた。そういえばしばらくの間何も口にしていなかったような気がする。ポシェットから飴玉の入ったポーチを取り出し、そこから氷砂糖を口に含んだ。おばあちゃんが昔からこうして氷砂糖を持ち歩いて、あたしも真似するようになったんだっけ。じんわりと甘みが口に広がって初めて、あたしが相当疲れていたことに気が付いた。もう一粒食べてもいいかな、二つ目を取り出そうとしたときだった。
「ソレ、ボクにもチョウ、ダイ?」
グランドピアノの下にいるあたしを覗き込むように、大きな二つの目をした黒くてどろどろとした物体が話しかけてきた。
「え――?」
「ボクにくれたラ、ママにもパパにも会えル」
「ほんとに?」
「ホントだヨ、ピアノもまタ、弾けル」
どろどろの怪物が、どんどんあたしに近付いてくる。あたしの脳内が渡してはいけないと叫ぶのに、手が、吸い寄せられるように氷砂糖を怪物に向かって渡そうとしている。怪物が大きな口を開けてあたしに触れようとした瞬間だった。
「嘘ついたら駄目じゃないか」
ひゅん、と風があたしの頬を掠めたと同時にぐちゃ、と潰れる音がして、急に視界が開けた。
「驚かせちゃってごめんね。もう大丈夫。出ておいで」
恐る恐るピアノの下から這い出ると、そこにいたのは白い制服を着たお兄さん。ピアノの白い鍵盤が血で真っ赤に濡れているのに対してお兄さんの制服は一切汚れてなくて、しかもあたしににこにこと笑いかけている。
「今の、お兄さんが……?」
「そうだよ。怖い思いをさせてしまってごめんね。よくここまで耐えたね。偉いよ」
そういってお兄さんはあたしの頭をふわりと撫でた。久しぶりの人の肌の感触が懐かしくて切なくて、お腹から何かが込み上げるように、気付いたらぼろぼろと泣きじゃくっていた。
「あのね、みんな死んじゃったの。パパもママも。親友のアユミちゃんとも連絡がつかないの。ねえ、どうして人間って生きるの?どうせみんな死んじゃうのに、生きてるのって、気持ち悪いよ」
「そんなに悲しいことを言わないで。ここで僕が君と出会えたことにも意味があってほしいと思うし、僕は君に生きてほしいから助けたんだ」
「でもあたし、もうひとりぼっちだよ」
「どうして?ここに僕がいるのに」
とんとん、とお兄さんが背中を優しく叩いてくれる。少しずつ、呼吸が整っていく。お兄さんはあたしに視線を合わせて続けた。
「ねぇ君、さっきの怪物見えたの?」
「うん」
「それでもここまで逃げきれた。君は強いよ」
そう言ってお兄さんはあたしに小指を差し出した。
「僕が君が生きていて良かったって思えるようにすること、約束する。だから君も、僕についてきてくれる?」
あたしが強くなれるかなんて、あたしにも分からない。けれどここまで来れたのには何か意味があるのかもしれないし。意味があってほしい。だから、祈るように小指を絡めた。
「……はい」
「ありがとう。僕は乙骨憂太。君の名前は?」

これは、あたしが呪術師になった、たった一つのきっかけの話。






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