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「ほんなら、しりとりでもしよか。な、しりとり」
「……あなたうるさいです話しかけないで」
「せやかて救助なんていつ来るかわからへんよ。どうせ同じ時間浪費するんやったら、楽しく浪費した方がええやん?」

動じることもなく、にこにこと、笑顔の蛇口は全開に捻られている。自分がその真下のシンクに丸くなって座っている姿をなまえは思い浮かべた。天より降り注ぐ陽のエネルギー。今にも水圧で、押しつぶされてしまいそう。
非常ボタンを押した際の対応から察するに、彼の云うとおり、救助が本当に来るのかどうかも考えものだった。『ハーイ。調子はどう、いま止まってるの? メンテナンス担当者がランチに出ちゃってるから、悪いんだけどもう少しだけ我慢しててくれる?』ーーー冗談じゃない。

「しりとりがダメやったら、なぞなぞする?」
「いやです。わたしは、静かにしていたい」
「えー!そうなん? 俺、しぃんとしとると何や逆に落ちつかへんけどなあ」

熱を帯びてきたリフトの息苦しい圧迫感。どれほど時間が過ぎたのかと思うが、事実まだ三十分と経っていない。腕時計が忌々しくも澄ましたように光る。
それにしてもこの男はよく喋るし、よく笑う。狭苦しい閉鎖空間で、他人と二人きりであることへの緊張も不安も見えない。自分の国では考えられない職務怠慢も、こんなものは日常茶飯だ、と笑い飛ばしている。

「鯨に飲まれたとでも思とったらええねん」

聖書にそういう話があんねんなー、たしか。
日常に鯨などに飲まれる機会がそうあるとは思えないが、彼なりに気を遣ったつもりかもしれない。背中を丸めて、じいっと呼吸を繰り返すこちらへ、静かな声で、しかしとめどなく話は続く。

「せや、知っとる? 鯨は胃袋が4つもあんねんて。前ヒレの骨はなー、こう。五本の指みたくなっとんねん。でな、むかしむかしは生きモンはみーんな海の中に住んどって、そのあと一回は陸に上がってんけど、やっぱ海が恋しいわーって戻った連中が、鯨やねんて。んで、陸に残ったんが俺ら人間になったんやで」

話しかけるなと釘を刺したためか、それはほぼ独白に近いものだ。しかしその節がうねるようなやさしい響き、その律動は徐々になまえの意識を解きほぐした。鯨の胃の中。台所のシンクから海の底へ、蛇口を捻ったのは誰だったのか。海中の狭い箱に、ノイズが響きはじめる。トーキー映画のように。くぐもって声がよく聞こえないので、なまえは目を閉じ、耳をすます。
ハーイ。そちらの調子はどう?
ハーイ。そちらの調子はどう?
ハーイ。そちらの調子は……


目を開けると、大柄の老人が困ったような、呆れたような顔で見下ろしていた。ジャンプスーツの胸元には社名のロゴが入っている。メンテナンス係であると気づいたのは数秒後で、同時に、新鮮な空気によってなまえの脳は急激に冴えていった。いつの間にか眠りに落ちていたらしく、腰のあたりがじっとり汗ばんでいる。一体、いつから眠っていた? 腕時計の針はピタリと止まっており、あれからどれだけ経ったのか、なまえには分からなかった。電池が切れているのだ。
とにかく、ここは視界が明るく開けて、とても眩しい。救出されたのだ。

べったりと座り込んだままのなまえに、先ほどの鯨の男が手をさしのべてくる。リフトの外を指さして「Is this a place?」と尋ねたら、盛大に笑われてしまった。


エレベイター・ミュージック


リクエスト頂きまして、サルベージしました。親分は男前。
11.9.12

 

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