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※注意:国設定ありです



 トゥルペンなど携えて来るべきではなかったか。ここへ来て、妙齢の女性に差しだすようなその色合いが、ひどく浮ついたものに見えてならない。これは要務だ。古びて厳めしくなった戸口の前で、何度かそれを放ってしまいかけたが、それすらおのれの嘴の黄色さを目立たせるだけだと気づき、ばかばかしくなった。
 結局のところ、鮮やかな花弁のむこうに臨む相手は、こちらの杞憂など鼻にもかけずに愉快げにしている。腹の底を読まれているようで面白くない。しかし抱えた花を挿しにゆく後ろ姿に悪い気はしなかったし、なにより、花に罪はない。


 「なんにもございませんけれど」

と、出された砂糖漬けジンジャーを噛みながら、畳へ体を落ちつける。ここへ来る建前は、国事である。国事であるのだけれども、真意は興味本位ひとすじ、と思っていい。とはいえ、青くさい小僧の恋慕とは、わけがちがう。なにせ肉のない肩はすっかり下がり、湯のみを置く手は枯れ木のごとく、深く刻まれた皺だらけの相手である。骨がいいのか背筋だけは、ぴんとしている。ほんの一寸先の、隅にある紙片へ伸ばされた指さえ弱々しいので、たまらず、ひょいと掴んでやると、「あ、すみません」と小声で嬉しそうに礼を云う。こういうとき、心底、おんなは怖い。玄関先で花束を手渡したときと同じ、舶来ものを無邪気に喜ぶ初心でもなかろうが、あんなふうに、まるで少女のように瞳を伏せて「うれしい。」などと呟くのだ。――もっとも、齢のほどなど我々には大して意味を持たぬ概念ではあるが、なんとなく、こういったところから、人であろうが国であろうがどの世界においても、おんなは魔物なのだな、ということを改めて考えた。人を不安におとしいれるような、もうすこしそばへ寄ってみたくなるような、そんな危うい類いの怖さがある。

「はよやっとこさ。読んで、読んで」
「はいはい」

放っておけば、いつまでも白痴のように微笑んでいるものだから、毎度のこと、促してようやく書面へと向けさせるのだが、それがまたひどく老けこんだ仕草で、あまりにも紙へ顔を近づけて舐めるようにして読むもので、堪らない。

「……ほんなにせんと見えんのけ?」
「いい加減に老境ですから。ごめんなさい、お見苦しいわね」
「難儀なもんやでな。ほや、今度」

そこでふと、おや、と口を噤む。着物の袖から剥きでる腕の、ずいぶん白いことが気にかかった。こんな瞬間が、たまさか起こるのであるが、もとより密かな好奇心か、どうにも自分には”それ”を待っているふしがあった――あ、来たな、と思う。さらに目を凝らしてやれば、つるりとした清潔な肌には若い張りさえある。
 筆をにぎる指先の、しなやかで瑞々しいこと。
 雨水のように下へ下へ、蠢動する曲線を走らせては、みごとな黒い轍を作りあげるその動きの、なめらかなこと。

こんど?

ぽってりと、蜜を含んだような唇がその形を描く。浮ついてはいないが高すぎる声に、背中が浮く心地がし、次には息がつまる。さきほどまではいなかったはずの、若いおんなが、すぐそこに座している。にこにこ赤い口で笑いながら、こちらを見ていやがる。泡立つ意識に相反して、右手はゆっくり澄んだ桃色の頬へと向かっており、いや、今日こそは、逃がしてなるものかと覚悟を決めて――しかし、触れる、触れない、のところでとつぜん庭先からした犬の鳴き声で、は、と我にかえって手をひっこめた。
 瞬くあいだに、目の前には老いた小さな首を傾げ、阿蘭陀さん、などとおのれの呼び名を口にしている相手がおり、心臓が耳のすぐそばで、どくどくと音を立てていた。
 うん、と生返事がこぼれる。

「……今度、な。ええもんやるわ」
「あらあら。一体また、なにを頂けますのやら」
「スペクトオルいう対の水晶やがの。こう、耳にかけるとよう見えるもんやざ」

相手は、「まあ。それは、とってもふしぎ」と可愛く笑った。光の加減のせいではない。目尻に古木の年輪のような皺が深く刻まれているのは、たしかである。煙につつまれた心地で、冷たい茶を一口、飲みこんだ。

「海の向こうには、まこと、変わったものがございますね」

鈴を転がす声に顔を上げると、ぴたりとまとめられた、耳の横に垂れる髪は墨を流したようにつややかだ。襟から涼やかに伸び、しまった首の上に、恥ずかしげに頬を緩める小娘の顔がついており、それがにこりと微笑んで、まっすぐにこちらを、強く真っ黒な目が、射っている。これでどこまでも、どんなものも見透かしているのに違いない、という色をしていた。ぜんぶ分かっていやがるのだろう。ここへレンズなど、かぶせなくとも見えている。争ってこちらが屈するとはまず思えないが、勝てる気もしなかった。そう気がついたら、背中の汗が妙にじわじわと引いていった。
 まったく、海の向こうにはこういう変ちくりんなものがいるのだから、なにがまことか、など考えるのは甚だ無駄であるという考えに至る。思わず、は、は、は、と心にもない乾いた笑い声が久方ぶりに漏れた。相手もまた、ふふ、と皺だらけの掌を持ち上げて笑う。

「食えねえ婆さんやな。あんた」
「そりゃ、おいしく頂かれては困りますもの」

いい子になさいな、と嗜められて、ようやく観念する気になった。また今日も負けた。




蘭兄さん好きなんです
11.7.18

 

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