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 夢を見た。シーツから頬を剥がして頭をもたげるとともに、雲散霧消するような、ひどく朧げなものだ。懐かしい人物がそこにいたような気がするが、今もってして、まったく思いだせない。私はしばらく枕に顔を埋めたまま、再び眠りに落ちようとしていた。階下から人の声がする。この家の人間は、朝が早い。居候の身としてはいささか気分のまずいことだ。私はしぶしぶベッドから身を下ろし、室内履きに足をかけて数歩、歩んだ。ベッドが高いせいで、前へのめるようによろけてしまう。まことこちらの家具はすべて、規格が合わぬ。しかし己の規格外ゆえ、屋根裏部屋特有の傾斜した天井にだけは頭を打ちつけずに済んだ。

 私は小窓のカーテンを左右に開いた。すっかり日は昇り、朗らかな明るさが目を刺激する。見えるものは木々の間の公道と屋根瓦くらいだが、これらは私の記憶に宿る日常の風景とは、ずいぶん異なるものだ。異邦人なのだからあたりまえではあるのだが、目覚めてすぐに見えるものが慣れぬのは、何やら少し、寂しいようにも思う。長く時間を過ごしさえすれば、この気持ちは今朝の夢と同じくして、ぼんやり消えてゆくのだろうか? 欠伸が私の視界を濁らせた。どうにも朝は、頭も体も、働かぬ。このためドアが何度か叩かれていることに、私は気づき遅れていた。しかもノックの主は、こちらの返事も待たずにドアを開けた。

「よう、いつまで寝てやがる?」

彼は足音も荒々しく侵入したかと思うと、すぐに、あっけにとられたように足を止めた。通常ならば声を上げるとか、寝間着姿を隠すだとか、私とて何らかの反応を示したに違いない。しかし意識は依然としてまどろみの中にあり、私は首を回してその姿を収めただけだった。滲んだままの瞳では、事態が判別できなかったのだ。彼は押し黙ったまま、ゆっくりと、こちらへ距離をつめた。さほど広くはない部屋である。すぐに当惑したような眉根を寄せた顔で私を見下ろすと、彼はどうしようもない苛立ちを散らすがごとく、片手で頭を掻きむしった。髪の隙間から妙なものが見え隠れしたが、それを認める間もなく彼は屈み込み、私を力強く抱きしめていた。それで私はようやく、彼の頭から飛びでているものが、何なのかを知ることができた。私には馴染みのない文化だが、意図を耳にしたことくらいはある。その祭事のモチーフが何であるのかも。

 彼はあやすように私の背を軽く叩き、その硬い体からは、甘いオイルのような匂いがした。

「いい子だからな、泣くんじゃねえぞ」
「……何ですって?」
「俺はなあ。もうガキにゃ寂しい思いをさせねえと、墓の下の親父に誓ったんだよ」

寝間着越しに、高すぎる体温が流れてくる。まだあまりドイツ語が分からぬもので、早口気味の彼の言葉は、飛び飛びにしか拾えない。しかし、その切れ端を繋ぎ合わせられる程度には、私の脳は、覚醒し始めていた。彼が顔を埋めている肩のあたりに湿り気を感じ、私は押しつぶされんばかりの圧から腕をよじって彼の背に、そっと触れた。

「どうも、ありがとう」

彼の鼻を啜る音のあと、天頂から伸びる二本の長い耳が、どういった仕組みか重力に従って垂れた。

「……ですが私、何度も云うように子供ではありませんので、恐縮ですけれどこのようなことは控えて頂きたいです。それと、おはようございます」
「うん、まあ気にすんな。ひとりは楽しくねえだろ、な?」
「とりあえずこの耳、取って話しません?」
「何でだよ!可愛いじゃねえか」
「可愛いですけど……。復活祭だからって朝からこれじゃ、ルートヴィッヒさんに叱られますよ」

お兄さん酔ってらっしゃるでしょう、という私の問いには答えず、ギルベルト氏はその赤い目をますます赤くして、もはや子供ではない私の頭をいい子、いい子と撫で続けた。

 そのうち階下から怒号とともに、焼き菓子用のラム酒の空瓶を抱えた屋敷の主が現れるのに違いない。このように騒がしい朝もまた、私の日常には今まで存在し得なかったものである。



春よ起きよと宣たまえば


イースターバニーなギルでした
11.4.24

 

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