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 信じられない、これは幻だ。それも幻の中でも最悪の部類に入るやつだとアルフレッドは思った。あってはならないことが起きている、しかも目の前で。にわかには信じられずに掌で作った覆いをそっと外した。もう一度。いいやまだだめだ、少し待ってから、そらもう一度。
 one, two, three.
 しかしニ度見ても結果は同じだった。

 キッチンにある食器棚の前で、なまえとアーサーがキスをしていた。


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 朝食の片付けを終えたばかりのなまえの腕、まだ冷たく湿っていて、袖も上げられたままになっているその腕を、アルフレッドは静かに掴んだ。掴んでそのまま、ゆっくりとランドリールームへ導いていった。強く引いたつもりはなかったが、角を曲がるときに少しだけなまえがよろけたのを見て、実際、アルフレッドは自分も結構ましになったものだなと思った。一方のなまえはと云えば、歩いている間に「What?」「Where?」「Why?」の3つの言葉を発しただけだ。あまりにも落ち着き払った、とぼけた反応だ。
 扉をぴったり閉めると、アルフレッドは乾燥機をパチンと回した。

「なまえ。説明して欲しいんだけど、昨日…」
「え?なに聞こえない」
「だからあのさ、昨日の夜」
「なーああーにーい?」

結局スイッチは切られた。

「…単刀直入に聞くけど」
「どうぞ」
「昨日、アーサーとキスしてたろ」

 なまえは洗濯機によりかかって、アルフレッドから視線を逸らし、自分の髪の毛をつまみあげた。ちょっとだけ痛んだ毛先をまじまじと見つめて、右拳をゆっくり顎に当て、そしてまた視線をアルフレッドに戻して、「うん」と頷いた。

「うわあマジかよジーザス勘弁してくれ…!」
「アル。言葉に気をつけて」
「だって本当に、ああもう信じらんない!クソったれ!クソったれ!」

なまえは、目の前でぎゃあぎゃあ喚き散らすアルフレッドを、ただつぶさに観察していた。恐ろしく汚い言葉をかわいい唇から次々に生産してはいるものの、実に健康的で真っ当な少年に見える。そして実際に、彼はそうなのだ。姿態は徐々に青年のそれに近付き、長い手足をうっすらと無駄のない筋肉が覆っているが、己を観察するなまえへ向けている不満気な青い瞳や、滑らかな金髪が揺れる様子など、陳腐な例えをするならばまるで天使のようだった。

「ちょっとなまえ、聞いてんの?黙ってないで何か云ってよ!」
「そうねえ、あなたハンサムになったわ。少し髪が伸びたんじゃない?」

「アアアアア!!」

 いよいよ天使がその頭を掻きむしり、云ってはいけないFのつく単語を高めの声が紡いでしまう前に、なまえは彼の肩に手を置いた。そしてランドリールームにあるちっちゃな白い木椅子に、腰掛けるように促した。
 その手を軽く振り払いながらも、アルフレッドはしぶしぶ椅子へと後ずさった。癪であっても、彼女の手が自分に触れたことで心が落ちついたのは確かだった。いつもそうなのだ。でも、いつも口には出さなかった。

「…あのさ。まあ落ちついてよ、少年」
「茶化す気なら出てって」
「わかった、ごめん。でもひとつ云わせて。人生ってのは、報われない哀しみに満ちているもんなのよ」

なまえのその"したり"顔、大人ぶった物言いがアルフレッドの頭に一旦は引きかけた血を再び登らせた。やおら立ち上がった彼はなまえの腕を、今度は思いきり掴んだのでなまえが顔を歪めるのが分かったのだが、構わずに後ろの壁へ押し付けた。
 こうしてみるともうほとんど背丈も変わらない、と同時にアルフレッドは知った。


「"それこそが人生だ"って分かったら、何か得はあるの?姉と兄だと思ってた人たちが、隠れてイチャついてるのを見なくてすむとか?」


 なまえは今度こそ、驚いたようだった。覗き込んだ目の中に緑色をした警戒心が見えた。それはアルフレッドの気分をほんの少しだけ良くした。

「ショックを…与えたなら、謝るわ。でも厳密には血の繋がりなんてないし、アーサーが女の子とひっついてるの見るのなんて、珍しくないでしょ?」
「そういうこと云ってんじゃないよ。普段の相手は"きみ"じゃない」
「あなたこそ、分かってると思うけど。別に結婚するわけでもなし」
「そんな悲劇があってたまるもんか」
「ホントそのとおりよ、ねえ、アーサーとはお互い愛し合ってるけど恋人にはなれない。意味なんかないの、それだけは絶対」
「絶対?…誓う?」
「神に誓って」

なまえはキッパリと、そう云い切った。そうしてずるずると肩へ傾いてきた小さな頭を、正しくはその後頭部を、手首だけ器用に動かしてやさしく撫でてやった。指で梳くとシャンプーの匂いが香る、柔らかで綺麗な髪はアーサーと同じものだった。そのうちにアルフレッドが手の力を緩めたので、なまえは今度こそうまく彼の頭に触れることができた。
 鼻を啜る音が、耳のすぐそばで聞こえる。
 彼は、泣いていた。

「俺は違うよ」

アルフレッドはそう云って、体を離した。目の周りが痛々しいほどに赤い。肌が白いので余計に目立つのだ。なまえは黙って彼の言葉を待った。まず言葉はキスになってなまえの右頬へと落ち、次には左の頬と注がれた。確かめるように鼻と鼻を触れ合わせ、アルフレッドは固く目を閉じたまま、しばらくの間そうしていた。長い睫毛の先に、こぼれそこねた水滴がついている。それを見て、すくってやりたいなとなまえは思った。彼は最後に額へとキスをした。ランドリールームの白い壁に囲まれたその行為は、とても神聖で厳かにさえ思えた。柔軟剤のいい匂いがして、明るい場所。
 俺はただ、と彼は云った。

「ただ一緒にいたいだけだよ。ずっと。それができるんなら他に何も要らない」
「へえ。ずいぶん無欲なのね」
「…茶化すのやめてったら」

なまえは再びできるかぎり腕を伸ばして、その小さな頭を掻き抱いた。あやすように掌で背中を撫でさすり、拍子をとって、きつく彼を抱いた。それこそが家族愛ってもんよ、アルフレッド。回した腕に力をこめてやると、苦しそうにくぐもった「Fuck off」が胸の中で聞こえた。




思春期のエディプス・コンプレクスと、お兄ちゃんは最低という話
10.02.17

 

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