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 ちょっと出て来られますか、と電話があったのは夕方のこと。

「こうして出先で待ち合わせるのも良いものですね。デートのようで」
「え、デートじゃないんですか」

急な誘いではあったが、まさか部屋着でというわけにもいかず、それなりにきちんとした格好をしてきたつもりのなまえは心なしか落胆した。大抵は、余裕をもって連絡を寄越す人なのだ。めずらしいこと。じんわりと温い空気を拭いながら、それでもなまえの気持ちは静かに弾んでいた。
 急いでシャワーをすませ、アイロンまで当てた薄い青色のワンピースは、まだ一度も袖を通していない。知ってか知らずか、相手の纏っていた夏物の薄い着流しも美しい藍染めで、まるで狙いすましたように色が調和する。計らずともこういった偶然は、嬉しいものだ。

「今日はただのお食事です」

 夕暮れの、あまり混雑していない百貨店の下。本田は手を挙げてタクシーを拾う。



 * * * * *


 連れて行かれたのは、雑踏の片隅にある小さな店構えだった。控えめだが見るからに高級そうな佇まいが、一見には、容易に入店を許さない雰囲気を醸している。
 黒い暖簾にある文字を見て、なまえは車中の「なまえさん、好き嫌いはありましたっけ」「いいえ特には」という会話の意味を理解した。

「ああ、そういえば、今日は土用ですか……」
「はい。ここは古くから馴染みの店でして」

外では微かだった醤油の甘く焦げる匂いが、引き戸を開くなり鼻先に流れてくる。思わずなまえは頬をゆるめた。

「どこかの落語に出てくるような御主人ではありませんので、ご安心を」
「『しわい屋』?」
「そうそう」

頷いて、彼も笑う。
 先客は一組だけだった。と云っても、座席自体が少なく、ゆったりと仕切られた数寄屋造りの座敷である。目の合った主人に会釈すると、そのままするすると一番奥の座敷へ這入った。感じのいい店内を見回していたなまえは、慌ててその後を追った。

「土用入にはね、毎年ここへ来るんですよ」

畳へ静かに腰を落ちつけながら、本田は独りごとのように呟いた。なまえはここへ来るのは、初めてのことだ。ああ、つまりはそういう事情なのか、と巡らせた思考は読まれていたらしく、彼は時折見せる意地悪い笑みをこちらへ向けた。

「『誰か』と一緒に、は今年が初めてですけれど」
「……あのう。私、何も聞いていませんよ」

そのまま拳を口元に当てて、くつくつと、本田は笑う。

「いえね、もう歳が歳ですから。元気に食べている若者を見ると、ひょっとして、寿命が延びるのではないかと思いまして」
「またそうやって、お年寄りみたいなことを云う」
「そりゃ、なまえさんよりは随分とおじさんですもの。私」

冗談のような本気のような、彼の掴みどころのない言動はなまえを混乱させもするが、同時にひどく心地良くさせた。いつだってそうなのだ。それが、彼が相手に対して用いる境界線なのである。
 墨で染めたような髪に、うっすら焼けた肌に、繊細な指の先に、見いだすことのできる美しい年輪。それは自分にはまだ持てないものであり、この先それが持てたとしても、永遠に追いつくことはない。不毛な鬼ごっこだ。ときに寂しく、またそれに安心している自分も存在することに、なまえは気がついている。

「何だか、本田さんって、おばけみたい」
「あらあら。おばけとは何です」
「……お若くていらっしゃいますね、という誉め言葉のつもりです」
「ははは、まあ、身内に仙人がいますからねえ」

 ほどなくして運ばれてきた漆塗りの重を前に、会話の要はなくなった。



* * * * *


「ご馳走様でした。あの、とっても美味しかったです」
「それは良かった」

支払いを終えた本田が店から出てくると、彼の肩越しに会釈をする店主が見えた。なまえも軽く頭を下げるのを待って、引き戸が静かに閉じられる。ほんの一瞬だが、勘ぐるような視線を向けらたこともなまえは知っていた。
 私たち二人は一体、どのように映ったのだろう。

「夕涼みには、少し暑すぎますかね」

少し歩いて帰りましょうか、という本田の提案で、なまえは少しばかり彼に身を寄せて頷いた。日の落ちきらない路地を歩きながら、どちらからともなく手を繋いだ。節くれて、ほんの少しくたびれた指先。汗ばんだ掌同士が二つの色の間で絡む。
 青いワンピースから、そして藍の着流しから、燻したような匂いが微かにする。消えてしまうのが惜しいような気がして、なまえはわざとゆっくり歩いた。本田もそれに合わせて低い下駄を静かに運ぶ。頭上で次第に移ろぐ濃い青に、飛行機雲がまっすぐ伸びていた。

夏はまだ、これからである。



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