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 『秘密基地を見せてあげる』

幼稚な誘いに、なまえはのこのこ着いてきた。この子はもう少し警戒心を持つべきだと思うな。紳士だなんて今や都市伝説でしかないのに、ホンダは一体どういう教育をしているのだろう。そう思ったすぐあとで、自分を育てた人物の顔が浮かんで地中深く埋まりたくなった。
 鳶は鷹を生みはしないが、手塩にかけて育てた小さな鳶同士が、よもや日曜の夜によろしくやっているとは思うまい。

「昔、ここで煙草を吸ったんだ。アーサーに隠れて」
「まあ。正しい青春ですこと」
「でもクソ不味かったから、あれっきりさ!」
「あはは、健康優良児」

なまえのお尻の下の、ラグが引いてある部分には焦げ跡が隠れている。煙草よりもライターを持ち出したことに彼は怒っていたっけ。というより、焦っていた。年がら年中酩酊しているような兄貴分を見ていたのだから、ドラッグなんかに手を出すわけがないのに。
 あの頃は、ドクターペッパーとペントハウスさえあればそれで満足だった。
 なまえは指先でマシューと一緒になって壁に書いた落書きをなぞったり、いちいち読み上げたりした。好きなバンドや野球チームの名前、下らない言葉遊び、それから口うるさい誰かさんの似顔絵や(けっこう自信作だった)悪口なんかを。

「……ねえ、彼って本当にあなたのお兄さん?」
「残念ながらそうらしいね」

眉を下げて笑ったなまえは泣きそうなくらいに優しい横顔をしていた。ああ、こういうの、背徳感が沸くよなあ。だけれど今はもう、どれだけ長いスペルの単語を書けるか競い合ったりすることはないし、隠れて煙草を吸うこともない。
 ドクターペッパーでは満足できない。
 意識したつもりはないのに、色の変わった空気になまえの表情が強ばった気がした。床に置かれた指先を掴んで、ぎゅう、と握りしめてみる。今まで静かに座っていたのに、とたんに慌て出したのが面白くて、少し調子に乗ってみたくなった。
 小さい耳が真っ赤だ。

「あ、ねえ、女の子の名前が書いてある。これアルの字でしょう」
「なまえ」
「な」
「そばに来てよ」

 肩と肩がほとんど触れそうなくらい狭いテントの中で、おまえ、それはないだろう。
 壁に描かれた眉毛の太い男に文句を云われた気がした。うるさいよ。心の中でそっと悪態を吐いてから、はずした眼鏡を乾いた床に置いた。



 

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