buch | ナノ




 ホームレスどころか、歯の妖精すら凍死するんじゃないかと思うほど、ロンドンの冬は寒い。空気がからっと乾いているぶん、よけいに冷たさが肌を突き刺すようだ。ドブネズミ色をした空は年中かわりばえしなかったが、窓の外を仰いだアーサーは「マジでクソ忌々しい天気」とわざわざ小さく舌打をした。私は若干冷めてしまった紅茶をすすりながら、眉をひそめて彼を見た。自分が彼のママで、彼が柔らかい産毛のような髪を持つ小さな坊やだったなら、「Language.(言葉に気をつけなさい)」とたしなめたであろう視線で。彼はだらしなくテーブルに肘をついたままの姿勢でこちらを見やると、投げやりに「なにか?」と問うた。

「べつに。ただ言葉が……その、隣の席に子どもがいるし」
「へえそうかいママ、だったら云い直すよ。"実にクソ忌々しいお天気ですね"」

これじゃ坊やというより、思春期のティーンエイジャーだ。タータンチェック柄だけはやめろとさんざっぱら忠告したのに、彼は今日もまるでボーディング・スクールの生徒みたいな出で立ちだった。アーサーは自分が童顔なのをとても気にしていて、いつだったか仕事帰りにパブで飲んでいたときに「今日は姉さんと一緒かい、お坊ちゃん?」と声をかけてきた酔っぱらいを殴ったことがある。こちらも素面ではなかったけれど、店員に警察を呼ばれる前に彼を連れて逃げだしたのは記憶に新しい。その翌日、彼は私の職場に現れて、残業という名の死ぬほどつまらない書類作りを放棄させ、おいしいチャイニーズを食べに連れて行ってくれた。あの店は先月、潰れたそうだ。
 私がさり気なく服装について指摘すると、アーサーは、かちんときたのか顔をしかめた。が、すぐに冷笑をはりつけて「どうもありがとう」とやけに丁寧に、礼儀正しく云った。

「そちらこそ、本日のお召しものもよくお似合いで。さっきからガキがやたら嬉しそうに見てくると思ったら、その貧相な胸じゃなくてシャツだよな。電話番号聞いてきてやろうか、気が合うんじゃねえかな?」
「残念。これはアメコミであってカートゥーンじゃない」
「じゃあ、あれだ。きのうジムで着てたやつ」
「あっちはスペースゴースト」
「そいつ何者だよ?」
「宇宙のヒーロー。レディオヘッドの音楽を違法コピーしてるの」

心の底からばかばかしいという表情で、ふうん、と彼が頬杖をつく。そうやっているとますます印象が幼くなる。彼はたぶん、自分が周りからどう見えているのかが分かっていない。この目がいけないのだろうか。深遠な光に満ちた緑の瞳が、いささか神秘的すぎて、彼からファンタジックな部分を引っぱりだしてしまうのかしら。中身はファンタジックどころか、凶暴な二枚舌をもつプライドの高い猫そのものなのに。行儀よくすることだってできるが、彼がそうしている姿を見たのは指で数えられるほどだった。

「……ほうら。現にこの人、勝手に私のお茶を飲んでるし」
「マドレーヌがぱさぱさなんだ」
「食べなきゃいいでしょう」
「俺にだって、これを紅茶に浸して蘇るような思い出のひとつもあるんだよ」

今度は私が頬杖をついて、ふうん、と気の抜けた返事をした。彼の懐古を邪魔してやりたくなり、窓の外へと視線を走らせる。太った鳩。太った子供。クソ忌々しい寒さの中を歩き回るオフィス・ワーカーたち。よろよろ歩く老人。そしてまた鳩。汚れた歩道。

「あの子のスカート、ずいぶん短いね。風邪を引きそう」

アーサーが反射的にそちらへ目をやった。

「おい、ふざけんな。ありゃ女の子じゃねえだろが」
「それって性差別発言じゃないの。しっかり見たくせに」

私は鼻の奥でせせら笑い、彼の皿からマドレーヌをひとつ手にとった。一口かじってみたが、思ったほどぱさぱさしてはいない。けれど、あまりおいしくはなかった。紅茶をアーサーの領地から奪還して、なんとか飲み込む。

「私、何も思い出せない。そもそもこの食べ方って正しい?」
「さあね。おまえの感受性が欠如してんのかも」
「だけど、これで過ぎ去った人生のあれこれが蘇るんなら、それってちょっと薄ら寒いっていうか、なんか陳腐よね。ナルシシズム全開の病み方ってかんじ」
「そりゃブルジョワで病弱のフランス人様だぜ。おまけにゲイ」

また微妙な禁句が聞こえて、今度はちょっときつめの視線で私はママを演じる。彼はまったく応えようともせず、腕時計に目を落としてふっと息を吐いた。そろそろ時間だと仕草で語っているが、私は立ち上がらない。アーサーは今度ばかりは少しばかり眉を下げて、ばつが悪そうな顔をした。こういうとき、彼が次に何を云うのか私には分かっている。天気のことだ。

「マジで寒そうだな。予報じゃ、今夜は雨だってさ」

ウィットに富んだ皮肉屋で有名なかのアーサー・カークランドだが、会話のレパートリーは、実は驚くほどに少ない。天気の話題でなければ、その麗しい唇から紡がれるのは刺々しく毒々しい皮肉か、フットボールの試合のことかのどちらかである。もちろん必要にせまられれば、どんな類いの会話もやぶさかではないけれど。基本的に彼はあまり、人と話すのが好きではないのかもしれない。

「いい加減に戻らねえと、また上司に嫌味云われるぞ。仕事が与えられるだけ幸運なんだろ?」
「ほんとにね。ねえ、アーサー」
「なに」
「今日、誘ってくれてありがとう」
「……別にいいよ。予約がもったいねえし」

返事は面倒くさそうだが、きちんと顔を向けてくれる。

「忙しい人だからね。約束すっぽかされるのも慣れてきた」

たぶん後から、今日の夜中にでも謝罪のメッセージが届くことだろう。彼が私を思い出す暇がほんの少しでもあればの話だが。アーサーはわざとかというほどに苦々しい表情で、ふんと鼻を鳴らした。

「あんな面白みのかけらもなさそうな、神経質男のどこがいいんだか。俺には一切理解できんね」
「人の彼氏をそんなふうに言わないの」

そもそも私が誰とつき合おうが、彼にはもう関係がないのだから。口出しされる筋合いもない。それなのに、アーサーは苦い表情のまま「おまえが心配だ」と呟いた。とても優しい声色だった。たとえプライドが高く、少々傲慢で、あけすけにものを云う性格ではなかったとしても、こういうときのアーサーの正直さはいつだって私の胸を打つ。私も微笑んでこう返した、「よりを戻す気もないくせに」。
 私は傍らのコートに手を伸ばす。表面のごわついた感触が妙に哀しく、それは毛玉がついてみっともないせいで、週末にでもモールで新調しようと心に決める。アーサーが上着を着せかけてくれるような紳士じゃなくてよかった。いや、好いた女性にはそんなこともするのだろうか。いささか気障ったらしいが、彼ならば平然とやってのけそうな気もする。もちろん、私はされたことがない。

「ねえ、さっきのプルーストの話さあ」
「うん」
「失われたときは、戻らないからこそ美しいんじゃないの?」
「かなり痛い発言だな」

私たちは揃って笑うと、冷たい路上へ踏み出した。



それでもくっつかないふたり
15.11.28

 

1/1

×
- ナノ -