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 さて、どうしたものか、となまえは考える。さほど真剣味をおびた問題ではないが、今晩の夕食に何を食べようか決めあぐねるのと同じくらいには、頭を悩ませる必要がある。ただし、ここは冷蔵庫の扉の前ではなく、アテネの地下鉄の中で、目下なまえが考えるべきことは『どうやって目測70キロの下じきになった哀れなスカートを救出するか』だった。現に彼女――おそらくこのスカートの性別は女性だとなまえは思っているが、すべてのスカートがそうとは限らない。ちなみにドイツ語でスカートは男性名詞だから、ドイツ産のスカートはきっと大概が男性なのだ――は二人ぶんのお尻の下で、ぐったりとその身を横たえていた。もちろん一人はなまえの、もう一人は途中の駅で乗り込んできた男性のぶん。なまえが広がったスカートのすそへの注意を怠ったのは、酔っ払いがゲロを吐くロンドンのチューブとも、雑然としたパリのメトロともちがう、清潔で簡素なこの乗り物にぼうっとしていたせいだった。おまけに隣客は座席に着くなり本を読み出して、しかもそれが見るからに難しそうなものだったことが、なまえ自身を萎縮させた。だってキェルケゴールをこんな公共の場で堂々と読むなんて、何だか教養を、ひけらかしているみたいじゃない?一見して穏やかそうな、人の良いお兄さんに見えるけれど、それは口を開くまで分からない。例えばこんなふう:『ねえちょっと。あなたのお尻ったら、わたしのスカートを殺しかけているわよ、ご存知?』『えっきみのスカートが何だって、きみってもしや物質至上主義者?この本では、どんな理想論も死による絶望を回避できないとあるけれど、それについてどう思う?』。そもそも異国語も分からないなまえに、気のきいた云い回しができるはずもない。そんな調子で、降りるべき駅が過ぎてしまっても、なまえは可哀相なスカートを見殺しにし続けた。友人いわく『水疱瘡にでもかかったイエローサブマリン号みたい』な、黄色地にかわいい水玉模様のデザインが、彼女に漂う悲壮感をより増大させた。ええい、ままよ。所詮はノーと云えない日本人さ。なまえのママならば文句を云った挙げ句、男性にお茶を奢らせて、その上連絡先くらいは聞き出しそうなものだが。ああそうだ、お土産のMetaxaのブランデーを忘れずに買わなくては……。そこまで考えたところで、地下鉄はガタンと音をたてて停車した。我にかえったなまえの視界の片隅で、ようやく隣の男性が本を閉じた。イエローサブマリン号に朗報!彼は、座ったままで自分の手元を凝視している隣のなまえに、あれ、降りないの?とばかりに首を傾げた。こちらを覗き込むオリーヴ色の丸い瞳が、なまえの視線の先を追って、つるつるとパラシュートのごとく降下する。気がついた。黒いくせ毛が横顔にかかるなり、やおら立ち上がった彼の背丈は、当然だが座っていたときよりも断然高くそびえ、なまえはスカートもろとも彼の影で覆われた。下じきだった部分にちょっぴり皺がついているものの、彼女の健康状態はおおむね良好そうだ。ごめんね、ぜんぜん気づかなくて…というような内容を恐らく口走ったであろう男性は、ただ黙ったままでいるなまえの両目をまっすぐに見下ろした。再び首が傾く。天頂から飛び出した、何だか不思議な形の毛先が左に揺れる。先ほどよりも幾分すまなそうな表情で、今度は、Sorry、と彼は云った。実存的な死について、嫌味に語り出しそうもない雰囲気だとなまえは勝手に思った。きれいな黒髪。くせのあるふわふわ頭は、触ったらとても柔らかそうだ。なまえはだんだん彼に興味が沸いてきて、言葉を忘れて観察に没頭した。彼もまた、特に困ったふうでもなく、しばらくなまえを見つめ返していた。傾いた首とともにくせ毛も右に揺れる。あ、と納得したように頷いて、彼は本を持っていない方の手をゆっくり伸ばして、ゴメンナサイ、と云った。ごめんなさい。意外な日本語の登場と、その丁寧すぎる発音とで、なまえはとうとう口端を上げて降伏した。笑って首を振ると、男性は目をぱちぱちと瞬かせた。子供みたいな顔だった。その背後の車窓越しから、駅員が訝し気にこちらを窺っているのが見えた。そうか、ここはもう終点だ。とにかく降りなくては。なまえは何の抵抗もなく、その見知らぬ人物の右手を掴む。やはり子供のようにずいぶんと熱く、それでいて、なまえの体重を軽々と支えた。男性はなまえの左手を捕えたまま歩きだし、彼の大きなブーツが小気味のよい音を立てる。なまえは右手でスカートの皺をそっと伸ばす。ホームに設置された時計を見ると、時刻はまだ昼すぎだ。急かすようなホイッスルを背後にプラットフォームへ下り立つと、隣に並んだ男性は、さて、それで?とばかりに首を傾げて再びなまえを見た。

Either/Or


ギリシャの地下鉄はえらい綺麗らしい
10.09.26

 

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