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 猛烈な勢いで浴室の窓を叩くバカがいやがる。また近所の子供だろうか。だから地階に住むのはいやだったのだ、最近のガキはまったくどこまでも躾がなっちゃいないと湯船へ沈み込んでそいつを無視していると、そのうちにくぐもった振動がアルファベットの形を成して伝わってきた。L、その次はE、T、M、E、I、N、S、O、C、O、L、D――こいつはモールスか。ようく聞いてやると信号は声になり、音が文字となって俺の脳味噌の上にタイプをはじめた。雨だれのように自然だが、規則正しい律動。湯の中でゆっくりと目を開く。ぐんにゃりと歪んだ視界の、飾りガラスのそのまたむこうに女の影が見えた。白い服を着て、両手でガラスを叩きながらこう叫んでいる、Let me in, so cold!(中に入れてよ、寒いわ!)

 「クソみたいに寒い!」

腕を伸ばして鍵を開けてやると、そう叫びながら女は入ってきた。浴室の窓からだ。白い服だと思っていたのは、実際にはコートにはりついた雪で、なるほど外は朝から大雪である。紙吹雪のような氷の屑がはらはらと床のタイルにふり落ちて溶けた。

「凍えて死ぬかと思った、地下鉄がストで止まるのすっかり忘れてたのよね。でもキャブには絶対に乗ってやんない。車社会なんか滅べばいい」

俺がふたたび窓を閉じている間に、女はべらべら喋りつづけながら浴槽をまたぎ、背を向けてコートを脱いでいた。格式ばったパーティか、はたまた葬式の帰りかという野暮ったい印象の黒いワンピースは薄手でたしかに寒々しい。血の気がないせいで、肌が紙のように白かった。

「……おまえはキャシーの亡霊か?」

女はそのまま壁に片手をつき、「なにバカ云ってんの?」と云いながらブーツを蹴り脱いだ。俺は浴槽から上半身だけ出したまま、それをぼうっと見ていた。ぺたりと下りた両足は、爪先だけがベビー・ピンクに染まっている。足の肉付きはまあまあだが、色気のない体だ。これは新手の商売だろうか。
 いいや、まさか。
 そこで女のコートのポケットから銀色の柄が見えていることに気がつき、こう思った――ああ、俺はこれから殺されるのだ。この妄想癖の狂った女は、コートの中に隠し持っていたナイフで俺を刺すのだろう。幸運にも傷は浅いが浴槽の中で力つき、あわや全裸で失血死。女は金品を奪ってとんずらする。昨今のロンドンではありふれた悲劇だ。おお、ごきげんよう、みなさんごきげんよう。

 鏡の前で髪を解いてふり返った女が、うやうやしく世界にさよならしている俺を見て「あれっ」と驚いた顔をした。ようやくだった。

「見知った顔じゃないわね。あんた誰?」
「アーサー・カークランド、ここの住人だけど」

前の奴なら2週間前に引っ越したと告げると、女は眉をよせて、ふうん、と唸った。

「これってもしかして――」

そうして、俺から反らした目をぐるっと左右にめぐらせてから唇を結び、覚悟を決めたようにゆっくり息を吐いた。ご明察。いかれているが脳味噌はまともなようだ。

「――私、捨てられた?」
「そうらしいな」
「というか、逃げられた」
「だと思うね」
「最悪」

女は額に手を当てて、もう一度「最悪」とため息を吐いた。前住人は、とんだすけこましの最低野郎だったらしい。人間というのはまったく分からないものだ。この浴室にグリーンのきれいなタイルを並べたのも、出て行くときにアンティークのローテーブルを置いていったのも彼だった。もしかしたらあのテーブルは、この女のものだったのかもしれないが。

「心中お察しするよ」
「ご親切にどうも」

女は浴槽に力なく腰をおろした。もう今更、こちらもどうこうしようとは思えなかった。亡霊みたいに窓から入ってきたのだから、この際それでもいい。騒ぐのもばかばかしくなった。ふと、小さな肩が揺れたので泣いているんじゃないかと思ったが、うかがった顔は無表情だった。しかし、ぴんと伸びた背中が全力で悲哀を語っている。
 女が男に捨てられる。かわいそうだが、悲しいかな、これもよくある悲劇のひとつである。だいたい年齢が離れすぎだろう。ロリコンか。

「どうせ続かなかったもの。彼、ろくでなしだったし」
「善良そうなおっさんだったけどな」
「よくこのバスタブでラリってた」

だから家中のスプーンを全部隠してたのよ、と女は素足をぶらぶらさせた。ほうらね、と手を伸ばして突っ込んだコートのポケットから飛びだしたのは、俺を殺すためのナイフではなく、魔法のように大きな銀のスプーンだった。アイスクリームを食べたりするような巨大なやつ。女はその柄を慈しみの表情で撫でながら、同時に鼻でせせら笑っていた。

「少なくとも、彼はヒースクリフじゃあなかったわ」

好きだったのだろう。ヘロイン中毒のバカでも愛せる人間はいるものだ。

「あーあ、時間を無駄にしちゃったな。それに、これじゃ変質者みたいだ。アーサー・カークランド、あんた通報してないわよね?」
「そんな暇があったと思うか?」
「全裸だしね」
「そう。全裸だし」
「驚かせてごめん」
「いやべつに」

女がブーツをつかみ上げて、ゆっくりと立ち上がった。雪が溶けたのか、コートの裾から雫が数的落ちてタイルを濡らす。

「ひとりで帰れるのか?」
「嫌いなキャブに乗るわよ。今、自分を苛めたい気分なの」

ぴんと伸ばした足にブーツを履かせながら、女は浴室の窓に手をかけた。一度引いてから気がつき、ちょっと笑って鍵を開けた横顔はあどけない少女のようだった。

「忌々しいこの壁の色……」
「俺はいい色だと思うよ」
「前は好きだったけど、今は大っ嫌い」

吐き捨てるように、けれども笑い顔でそう一人ごちると、じゃあね、と女は窓枠からするりと身体をすべらせて出て行った。外はまだ雪が降っているようである。いささか気の毒にも思ったが、すぐに路上から「Bloody wanker!」という罵り声と、銀のスプーンが何かに当たる金属音が響いてきて、あれほどタフならば、と俺は紳士らしからぬ態度でぬるくなった浴槽にふたたび身を沈めた。鍵をかけ下ろした指先は、すっかりふやけきっていた。

 せめて今度は玄関から入って来ますように。



ビートルズとケイトブッシュばっかり聴いてたので
13.01.19

 

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