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にらめくら

 汚れた食器が積んである、その事実に我慢がならない。たとえ疲れて帰ってきても、それが視界に入ると、そこに「在る」のだと思うと、どうにも気持ちが悪くて見逃すことができない。衝動なのだと思う。もとより潔癖のきらいが見てとれる人だったが、しばらくの間一緒にいると、その度が通常よりも過ぎていることがわかった。それすら、今となっては美点にしか映らない。むしろ、元来そうでなければならないような心持ちにさえさせる。なるほど。恋愛とは精神の変則現象なのだな。今の今まで貫いてきた、守り通してきたオリジナルの形が、いとも簡単に他人に影響され、変化する。そのことに快感すら覚えているのだから、実際、これは、とても恥ずかしいことだった。他人に語られるのとはちがう、我が身の恋は平たくいえば煩悶だ。他人にひっそりと見ていられて、あまつさえ嗜癖に同調され、勝手に気分が昂られるだなんて、自分ならばごめんだな。気味が悪いもの。やけに下卑た罪悪感にその都度いたたまれなくなって、ワアと叫んで頭を抱えたくなる。芋虫のように体を丸めてやりすごす。なんなら、そのまま、てっぺんからびりびりと、力まかせに引き裂いてやりたいくらい。そうしたらきっと、あのきれいな眉根を寄せて、真っ白なたくましい手ずから拾いあげて、無造作に屑入れへ捨ててくれるのにちがいない。耐えられるはずが、ないものね。真夜中に汚れた床をごしごしと、タイルのすき間に流れ込んだ汚れを懸命に磨く大きな背中を想像したら、また、いたたまれないばかりの苦痛が襲ってくる。


 まさに衝動に任せ、両手を食器ごとシンクにつっこんだところで気がついた。チェンジポケットへ水滴が飛ぶのが見えて、引くに引けないと悟る。時計だけは外しておいたのが幸いだ。疲れているのか。悪態が口をついて、しかし頭をたれてすぐ、背後から足音がしたので唇を結んだ。確認せずとも誰かなどわかるのに、このまぬけな状況にいい訳をしたい気がして、ふり向いて「ただいま」と声にした。相手は表情を石膏みたいに堅くして、重ねたティーカップを置きつつ、軽く会釈を返した。こちらの姿を認めると、すぐさまボーダーが敷かれ、絶対にそれ以上のラインを、超えてはこないし、こさせない。一体何が火種なのだか、相当に恐ろしいやつだと思われているのには違いなかった。いつだったか、ものの弾みで彼女の手に触れたとき、今にも死ぬんじゃないかと思うほど顔を真っ青にしていたのを覚えている。ものの弾み、というのは実のところ偽りで、興味本位で占められた愚かな行動だった。示される隔意の、とりわけそれが自分に対して特に向けられている理由を単純に知りたかったのと、子供を戯れに茶化したいような、そういう残酷な意地悪心が働いたのだ。そんな気持ちにさせる素質が、少なからずあるのだとも思う。ともかく彼女は今日も露骨なまでに苦い顔をして、いつものように小さな声で「どうぞ、そのままで」と云った。視線はシンクに向いていた。「片づけますので、上で着替えてきて下さいな」「いいや、構わないが」「まだ向こうにもあるの。それに服が」「え?」「汚れてしまいます」「ああ」


 彼は煮えない返事で手首を引きあげると、つい、とこちらへ差しだした。袖口までは水分が達してはいないが、血の気が引いて、なおのこと白い手から、洗剤まじりの雫が水面へ滴る。いつになく鋭い目で、「頼む」と云った。なにを、などと滑稽なことを尋ねたりはできなかった。青い目に容赦がない。動揺するんじゃない。こいつ過剰に反応して、などと思われたくなくて、それでもかなり緩慢な動きでそばへ寄って、腕を伸ばす。触れてもよいものか、乾いた手でカフスを、あまり皮膚に触らないよう、慎重に袖をたたみあげる。相手が腰をかがめているので、余計に距離が近しく、こめかみが、ジリジリと熱を帯びる。前かけをしている腹部のすぐそばに手が、きれいな手が触れてしまう。腕が震えないよう呼吸を止めて、一体なぜこんな、こんなふうに倒錯したことを考えるなんて、ああバカめ、どうか今すぐ諫めてほしい。その大きな掌に、ぴしゃんと頬を打っていただきたい。腕回りが逞しいせいで、袖がなかなか上がらず、指が汗ばむ。もう温度も何もわからない。見ないでほしいのに、ともかく、右が終われば次は左。彼は黙って腕を上げる。うっすらついた時計の轍に目を凝らし、平静が乱れないよう努めるが、短い沈黙が恐ろしい。気がおかしくなりそう。


 小さい手だ。指も、その先に、申しわけなさげに乗っている爪も、髪の垂れている項すら頼りなく、また温度がないように思えて、不安にさせる。遠慮がちにではあるが、しかし意外にもしっかりした手つきで袖口をきれいに捲りあげた。ごく淡泊な態度ではあるが、いかにも苦痛に耐えんばかりに瞳を左右へ小刻みに揺らしていて、ほんの少し、かわいそうな気がする。同時に、懐かない動物がふいにこちらへ寄ってきたような、とりわけ自分に恐怖を覚えているような彼女に、この状況を強いたわけではないにしろ、結果的にはそうなったことが幸福のような、少し楽しいような心地がして、ついまた悪い癖が出た。混じりあうことはないとはわかっているのに、それを望んでいるわけではないのに、魔が差して彼女の手を取った。子供のような手を。よく見ると爪が縦に少し長いのや、節の細い指の形は、やはり女性だと思わせる。果たして、彼女はいつになく目を大きく見開いて、こちらを見上げた。何を思っているのか、驚いている以外の感情は読めない。自分の掌を伝って泡まじりの水滴が、彼女のブラウスの袖を濡らしている。指先が白く変色しているのにも気づかないふりをした。まっすぐにお互いの目を見て、数秒の間そうしていた。


 体を離した彼は、「ダンケ」と短い礼のあと、すぐにまた向きを変えた。さきほど調理台へ運んできたカップを静かにシンクへ放つ。白い磁器が沈んでゆく。大きな手が蛇口を捻る。いつまでも硬直している姿を横目で見て、彼は口元だけで笑った。「…なんです」「いや別に。ただ」笑ってそれから、いかにも面白そうな口調で、「取って食ったりせんから安心しろ」と云った。鈍重な何かが胃をめがけて落ちてくる心地に、息を飲み、思わず目を閉じる。こうやって目と目が正面を向き合わず、体温など感じられない位置にいても、恐らく姿が見えなくなっても、体をめちゃめちゃに引き裂いても、このいたたまれない気持ちはもうどこへも行かないのだ。やりすごすことはできない。安心などできるものか、安心など、こちとら頭から貪り食われても一向に構わない、むしろ、心の奥底では、もっとひどいことをされてみたいとさえ、思っているのに。これ以上は冗談じゃない、芋虫のように体を丸める代わりに、彼の隣に立ったまま掌で顔を押しつぶすように覆い隠す。もう見られない。どうかしたか?と囁く優しさをふくんだ意地悪な声が、低いあのきれいな声が確かに聴こえた気がしたが、いま口を開いたら、負けてしまう、と思った。彼に衝動があるのと同じように、私にはこの野蛮で破壊的な苦しさが根を張りめぐらせていて、それはすっかり致死量に達して、今まさにこの命を殺そうと鎌首をもたげていた。もうなにも起こらなくていい。なにも要らない。私は死にゆくばかりである。



どちらも変態って話を書こうと思って失敗した例
10.10.25

 

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