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「クッキーナイト・スイサイド」

昨夜のプレイはひどいものだった、あれは二流のショーだと文句を吐き合いながら通りを渡って、アーサーの家に着いたのは9時を回った頃だった。夕食を食べに出かけたのに、アルコールすらほとんど飲まずに店を後にすることになったのは、禁煙を始めたアーサーが喉の痛みを訴え、わたしはといえば、前日の呪いのショーのせいで胃がむかむかしていたからだ。夜道をしばらくお喋りしながら歩いたおかげで症状は緩和されつつあった。あの見るからにまずそうなパイ、そして実際に殺人的なまずさだったパイにさえ、もう少し食べておくんだったと想いを馳せるほどには。

数歩先にいたアーサーが「ちょっと寄ってかないか?」と自宅の戸口をしゃくった。これはとりわけ珍しいことでもなかったが、そのときわたしはしくじって、一瞬、とても変な顔をしたと思う。そして「さあ。それはどうかな」と肩をすくめた。

「何だよ? その『どうかな』ってのは」

怪訝な表情をしたアーサーが、ドアステップに片足だけ乗せたまま、こちらを振りかえった。

「……今日は木曜だし、木曜はろくなことがないからね。そういえば喉はどう?」
「まだ変だな。たぶん、お茶を飲めばよくなるけど」
「そんなばかな!」
「お茶は何にでも効くんだぜ。肝炎にも、不眠症にも、膝にたまった水の治療にも。死んだばあちゃんが云ってたもの」
「コーヒーは、肝臓がんの発生率を下げるんですってよ」
「おまえコーヒー嫌いじゃねえか」
「香りは好きなの」

わたしのおどけた誘導が本意ではないことは見え見えだった。実際のところ、木曜日にもコーヒーにも罪はない。ただ何となく、その夜は何かがおかしくて、歯車の具合が少しでも狂うと将棋倒し的に生じたズレが大きくなり、取り返しがつかなくなってしまう。そんな類の予感がした。こういうの、バタフライ効果と呼ぶんだっけ。

ここでひとつ断っておかねばならないのが、わたしたちは”通常の男女にとってこのあと展開しがちな事象”が起こるような間柄ではないということ。アーサーとは裸でお水遊びをしていたころからの知り合いで、すでに色気に欠けた腐れ縁という連帯感が、名だたる王朝の歴史のように脈々と根をはっている。わたしたちはたっぷりの紅茶かビタービールさえあれば、キスひとつせずに、一晩中クリケットのテストマッチを実況中継することだって可能だった。

それでもときどきは――互いに若く健全な男女であるからして――怪しげな方向へ舵を切りそうになることが何度かあったが、幸運にもそのたびに貞節の天使が現れて、頭の上でこう云った。
『不変の友情とは何物にも代えがたい宝です。友人がいなければ、世界は荒野にすぎないのですよ』
たまたま近くでそれを聞いていた別の天使が『へえ。ずいぶん良いこと云うじゃない』と感心すると、貞節の天使はすました顔で返した。
『飛行機で読んだ雑誌のコラムに書いてあったんだ』

そんなわけで、こういうとき、むろん故意ではないにせよ、何気ない流れをぶち壊して空気を変えてしまうのは、クラスメイトに恥ずかしいあだ名をつけるよりも罪深いことだった。気づかれなければまだ救済の余地があったのに、アーサーは律儀に2秒ほど遅れて顔をふいっと逸らし、愚直なほど気まずそうに目を泳がせた。彼はひどく運の悪い人間で、たとえ他人より遅く物事に勘づいたとしても真っ先に自爆するタイプなのだ。

オレンジ色の街灯のもと、無人の路地とレンガ塀の連続は、いかにも寒々しい光景に思えた。すでに0.5マイルほど先の我が東屋へと向かいかけていた意識の裾を、わたしは何とか呼び戻すことに成功した。実際の時間にしてみればわずかな沈黙のあとで、わたしは決意を固めた。わたしたちはどこまでも制約に支配されることを、本当は心の底で望んでいる。名だたる王朝の血には、結局抗えないのだから。

わたしの喉が、果実を絞るジューサーのように動き出した。

「それじゃあBBCのドラマでも見て、それから帰るわ。まだ時間も早いし」

なんとか云ってのけると、アーサーはごくさりげなく、だが嬉しそうに、紳士の仕草でこちらへ手を伸ばして「うん」と頷いた。

「お茶は出すぞ、間違いなく」
「ビスケットもある?」
「ある」
「種類は?」
「リッチティー」

よしきた、とわたしは彼の背中を叩いた。それでよかった。挽回できた、すっかり元に戻ったと愚かなわたしは信じこみ、ふたりの頭上で祝福のラッパが鳴るのを聴いた。そういうことにしたのだ。

アーサーの、意外にも固くて骨張った手をとりながら、わたしはどういうわけか沸き上がってやまない不自然な感情を押し殺すため、ゆっくりと頭をたれて敷居を跨いだ。屋根の上にいた天使には、まるで処刑されるためにのこのこ這いつくばって出ていくような格好に見えたことだろう。



リッチティービスケットはおいしい
12.05.17

 

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