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 そうしてなまえは、子供のように泣き出したのだった。
 通りゆく人々が、不審そうな目で見ている。こういう場合、端からすれば悪役は自分に映るのだろうが、実際のところ誤解されて拗ねられて、暴言吐かれて逃げられて。
 むしろ泣くべきは俺だろう、とルートヴィッヒは思った。

「おいなまえ落ちつけ、なぜ泣くんだ? 俺が悪いのか?」

視線を合わせようとすれば逆を向かれ、なだめようと伸ばした手は拒絶される。口をふさいで黙らせるだとか、そんな色めいたことができるような状態でもなかった。
 たぶん、触れた時点で殴られる。渾身の力をこめて。

「わかった、俺が悪かったからとりあえず落ちつこう。いい子だから、な?」
「……もういやだ、なんでわたしばっかり地獄の黙示録ばりに、こんなにハラハラと……」
「え、地獄の? 何?」
「ルートヴィッヒさんなんか、クラウディアとでも、よろしくやってればいいじゃないのよう!」

 ルートヴィッヒは混乱していた。今までにも喧嘩はあったし、なまえが泣くのだって特別珍しいことではない。ただ、こんなふうに大声で喚いたり、子供じみた不透明な主張をする彼女を見るのは初めてだった。なまえはどちらかと云えば皮肉っぽい物言いをするし、怒っても淡々と理論的に他人を責めるタイプだ。外では特に。いつもならば。
 ていうか誰だ、クラウディアって。

「さっきの件ならば断じて云うがな、あれは浮気じゃない!」

両手で顔を覆ったまま、なまえはかぶりを振った。

「ちがう、わたしは、ちょっとは危機感を持てと云ってるの!」
「危機感って何の……」
「ああもう、この天然たらしの、ムキムキばかじゃがいもおおお」

叫んだ拍子に、なまえが顔を覆っていた手を離した。
 想像はしていたが、これはひどい顔だ、とルートヴィッヒは正直にそう思った。だが不思議と自分には、あの昼間の美女よりも、今までに目にした何よりも、

「あなたがかわいいから」


* * *


 ハインリッヒ・ハイネは、「恋は狂気だ」と云った。

「あなた堅物で融通きかないマニュアルバカのくせに、かわいいから、だからいやなの!一緒にいたら引け目も負い目も感じるのに、だからって嫌いになれないし、でも無自覚だし、だから本来ならもっとこう、ヴィジュアル的にもばいんばいんで頭の切れるスーパーセクシーな人が似合うって、そんなのずっと前から、」
「――ちょっと待て。なまえ」

金属バットで後頭部を殴られたような心地がした。
 一体、何を云っているのだ、こいつは。ふざけているつもりなのだろうか。彼女はこちらに腹を立てていて、今は犬も食わない喧嘩の真っ最中ではなかったか。これではまるで。
 まるで、愛の告白みたいじゃないか。
 目尻を潤ませたなまえが小さく一度しゃくり上げるのを見て、ルートヴィッヒの体の中を、一気に羞恥心がこみ上げてきた。

「……あれ。赤い?」
「見んでいい!」

勢いにまかせて触れてしまえば、泣いたせいかなまえの体温はたいそう高くなっていた。後頭部を胸に引きよせながら、恐らく自分のそれも、そう変わらないだろうとルートヴィッヒは思った。まだ気を許しきれていないのか、なまえは身をよじって抵抗したが、無理に肩口へ押さえつけた。これ以上醜態を晒したくはない。

「……なんなんだ、おまえは……」

顎を埋めた髪の毛は、さらさらして冷たい。そうしているうちに大人しくなったなまえが、ルートヴィッヒの胸元で「ほんと何なんでしょう」と呟いた。くぐもった声はすでに落ちついていて、腕の力を少し緩めても彼女は離れていかなかった。

「勢いとはいえ、こんなムキムキに、かわいいだなんて」

改めて云われると、返す言葉がない。こんな細腕の、自分よりもずっと華奢で小さな女性に身を案じられるだなんて実におかしな状況だ。ふつうは逆じゃないのか。俺なんかの、一体どこが。
 恥ずかしいやら情けないやらで、ルートヴィッヒは笑いたくなった。

「……カフェインのせいかもしれません。もしかしたら」
「カフェインくらいで失踪されては困る」
「GPS埋め込んであるのに?」
「それもそうだな」

ゆっくり身体を離すと、なまえの顔には困ったような、ほっと安心したような笑みが浮かんでいた。ぐずぐずとへそを曲げていた不機嫌な片鱗も残しつつ、いつもの彼女だ。そう実感した直後に、思いきり脱力した自分に呆れた。この安堵感に依存しているのは実のところ、どちらなのだろう。

 身をかがめてキスしたら、今度こそ本当に殴られた。


* * *


「ちょっとかわいいからって、調子に乗らないでくださいよ」

泣いたせいで頭痛がするらしく、なまえは片手でこめかみを押さえている。もう片方はルートヴィッヒの左手と繋がっていた。散々喚いて逆に吹っ切れたのか、なまえは照れもせず、妙に真面目くさった顔でそう云った。

「……ちゃんと泣き止んだか、顔を見ようと思って」
「そういう嘘はいりません」

ルートヴィッヒはまだ少し痺れる頬を撫でながら、小さく息を吐く。ふと公園の入口にある垣根の向こうを見ると、白いベンツの運転手がにやにやとこちらを眺めていた。あのタクシー野郎、まさか一部始終見ていたのでは。もうあれには二度と乗るものか、と強く心に誓う。
 暮れきった薄闇の中を、何とはなしに寄りそって歩く。そろそろ帰らなければ厄介な兄がうるさそうではあるが、あのタクシーに乗るのは癪だし、トラムに駆け込むのも風情がない気がして、二人はいつまでも公園の中をのろのろと歩いた。

「でも、もう少し、素直になるべきかもしれませんね」

わたしたちは、となまえが静かに呟く。
 どの口がそんなことを、とルートヴィッヒは云いかけたが、彼女がいわゆる”素直”すぎると例の妙な言葉たちが飛び出してくるので、黙殺することにした。それに、確かに普段素直になれないのは、お互いさまである。
 でも今日ぐらいは、カフェインのせいにしてしまえば。

「ならば素直ついでに、さっきの質問だが」
「質問?」
「嫌いになった憶えはないし、これからもその予定はない。これは脅迫だからな」

釘を刺すように目線をそちらへ落とすと、なまえは思いきり眉をひそめてこちらを見上げていた。彼女のずいぶん大きい上着を羽織った肩が、闇にじわじわ溶け込むようだった。

「……あなた本当はわたしのこと怒らせて、楽しんでるんじゃ……?」
「そうだな。苛ついている表情を見ると、正直欲情する」
「変態」
「何とでも」

恋に狂うわけではない、恋とはすでに狂気なのだ。




サルベージ第2弾。"なるべく公衆の面前で困らせたい人ナンバーワン"をぶっちぎりで独走中のムキムキ
11.9.21

 

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