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 ドラッグや酒に溺れて物事への姿勢がどうでもよくなると、人は馬鹿をやる。しかし俺は記憶にあるだけで3週間はしらふだし、心身が正常でも事情によっては馬鹿になれるのだ。

「相変わらず気持ち悪いね、アーサー」
「おまえは顔つきが大人びたなあ」

逃げるように背けられた顔が、昔のアメリカ映画に出ていた、何とかという俳優に似ている気がする。シアトルから車を飛ばしてきた弟は、ヒースローから飛行機を乗りついできた俺よりも、ひどくくたびれて見えた。数年にわたる絶交ののちの再会、顔を合わせるなり口をついてでたのは「クソ、最初からワシントンに直行便で来りゃよかった」、これだけだった。アルフレッドは古い風船のように脱力した。
 云いたいことは分かる。しかし所詮は、こんなものさ。

「4年も経って今更、あれこれ口出しする気なんか起こらねえよ。せっかく来たから、ツラぐらいは拝んでおこうかと」
「こっちは3時間も運転させられてケツが痛いんだ。訴えるぞ!」
「そんなパンツの見えるジーンズ履くからだろ」
「……くたばってくんない?頼むから」

肘をついたままサラダをつつき、チェリー・コークを吸いこむ姿に、行儀作法とは何ぞと講釈をたれる気は失せる。嬉しくは思うが、懐かしさや感慨はない。ぽっかり空いた穴を眺めるような、奇妙で穏やかな感覚。
 やりとりが聞こえたのか、近くの席の女の子が笑っている。昼間でもどぎついダイナーの蛍光灯は、彼女のブルネットを淡く透かす。ヒットソングの焼き直しが流れる昼のラジオ。時差か疲労か、旅行特有の高揚感もない。それこそ映画でも見ているようだ。

「どうせならビーチにでも行けよ、きみみたいなのはさ。ビタミンも生成できて、陽気な若者がそこらじゅう闊歩してる。『ライ麦畑』的おセンチなのをご希望なら、まったくの逆方向だし」

この健全で不健全な状況が、弟には不気味に思えて仕方がないのだ。りっぱな生き物に育ったじゃねえか、そばに俺がいなくたって。
 意外とシンプルなものだったのだな、とあっけなく思う。

「電話で伝えたろ、友達に会いに来たんだよ」
「聞いたけど……。それって実在する人物のこと?」

イマジナリー・フレンドじゃなくて?と、アルフレッドがチキン・バゲットを噛む俺から、あからさまに目をそらして云った。
 『ブルウタス、汝もまた』俺はバゲットの最後のかけらを、その言葉とともに飲みこんだ。




 「撤回する。変わらないって云ったけど、少なくとも昔はここまで考えなしじゃなかったもの。もし家出した俺への復讐なら、現時点で大成功だぞ」

おめでとうございます、サー!とばかりに助手席を見ると、相手は無遠慮なあくびとともに、まぶたを上下させていた。眠った瞬間、車道へ捨ててやろうと思う。

「クソみてえな被害妄想だな……。べつに、信じなくても構やしねえけどよ」
「じゃあなんで滞在先も知らないのさ。電話は?したの?」
「したけど繋がらん」

 俺は善良な人間だが、実のところそんなに寛大でも暇でもない。が、狂人である身内を放っておけるほど非情でもない。意外に小さなこの街を、あてもなく一時間は走っただろうか。車はダウンタウンに入っていた。シートに埋もれてまどろみながら、アーサーは窓の外をぼんやりと眺めている。ふてくされているのか眠いだけか、どちらにせよ、この姿は記憶にない。だから気味が悪い。

「あのさ。残念だけど、俺は腕利きの名探偵ってわけじゃないし、明日の朝までには大学に戻んなきゃなんない」
「うん」
「本当に探す気あるのかい?こんなやり方じゃ、見つからなくてもともとだぞ」
「うん」
「……アーサー、寝るなよ」
「はいはい。起きてるよ、アル」

これは昔、腐るほど交わしたやりとりだった。
 ポートランド空港に現れた兄は(ちなみに彼は4年と云ったが、正確には最後に会ったのは3年半前だ)、声も、幼げな顔も、貧弱な体もほぼ同じなのに、中身はすっかり穏やかな爺さんみたいになっている。言葉遣いは凶悪なままだが、拳どころか中指すら立てない。無謀を云って困らせるのは俺の役目だったのに、これは一体どういうわけか。
 例の、気分が滅入る文学に浸りすぎたせいか? それとも。

「ねえ。その、友達ってさ」
「ストーカー野郎と呼びたきゃ呼べ。もう耐性はついてんだよ」
「……何の話だい。そうじゃなくて、たとえば恋人とか想い人とか、要は情熱的な…って、何でこんな気持ち悪い会話きみとしてるんだろ?まあいいや。そういう、ロマンスの類だったりするんなら、ちょっとだけきみのこと見直すのにな」

それこそ美談じゃないか、俺には迷惑でしかないけれど。ハンドルを切りながら横目で助手席を窺うと、アーサーは反論するように体を少し起こしかけて、そのまま固まった。
 そうして突然、はっきりと空間を貫くような声で「停めてくれ」と云ったのだ。

「――何だって?」
「車を停めろ!今すぐに!!」
「一体何なんだよ!?Son of a……」

とりわけ、兄に云ってはまずい言葉を舌の先まで出しかけて、俺は思いきりブレーキを踏んだ。タイミングが少し遅れて、後方車がクラクションを鳴らす。こっちは『クレイジーが乗っています』ステッカーを貼り忘れてんだよ、勘弁しろってんだ。
 顔が腹にめり込むんじゃないかと疑う勢いで、車は停まった。そこはちょうど、古びたレンガ造りの建物の前だった。



 

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