buch | ナノ


 そろそろ日本に帰る、と切り出されたのは土曜の夜だった。なまえはちょうどお土産の生八つ橋を食べていたところで、咀嚼して飲み込んでから「あっそう」と答えるまでに10秒ほどを要してしまった。

「そろそろって、いつなの」
「チケットは明後日で取りました」
「明後日?」

意外にも非難がましい声が出て、自分でも驚く。

「だって、ほら。お父さんの用事とか」
「それなんですが、実は先週ギルベルト君が……」

出てきた名前に、さらに素っ頓狂な声を出しそうになったが、お茶を流し込むことで阻止した。――飲みに行ったあの晩の翌日、突然フラットに訪ねてきたギルベルトにタクシーに乗せられ、義父の勤める会社まで連れて行かれたのだと云う。なぜだか事前にすべて話が通っていたらしく、用事はあっけないほどすんなりと終わったのだそうだ。

「家の権利やら税金やらの話だったので、一応ちゃんと弁護士を立ててたんですけど。その人の資料よりも彼が詳しく話してくれて、あっという間に片付いたんです」

「父も驚いてました」と穏やかに続ける菊に、めまいがしそうだ。

「あなたそれ、変だと思わなかったわけ?」
「もちろん不思議だなとは思いましたけど。色々聞いても『うるせえバカ』としか云われなさそうですし」

たぶんそのとおりだろう、となまえは思った。

「彼が何者でもいいんです。尊敬していますから」
「……そんけい……」
「ご存知ないかもしれませんが、とってもまじめで心のやさしい人なんですよ。何でもできてお強くて、小動物にも大人気で、意外にポエマーなんです。コスプレも似合いそうですし。もう私にない要素をすべて兼ね備えているというか」
「妙な要素がいくつか混じってたわよ」

変人という要素以外に共通項があるようには見えない。が、少なくとも、犯罪の片棒をかついでいるわけではないらしいと知って安堵した。

「あと、ほら。かっこいいじゃないですか。見た目が」

また中二病の夢がどうこうと語りはじめた菊を、なまえは冷ややかな目で見つめた。ギルベルトに留まらず、彼のバイルシュミット兄弟に対する憧憬はすさまじく、この前はルートヴィッヒを写真に撮って喜んでいたからいよいよ意味が分からない。いったい何に使うのか尋ねたところ、「資料に決まってるじゃないですか!」となぜかキレ気味に返されたが、一体何の資料かは聞けずじまいである。

「それでですね。帰る前に、なまえさんにお願いが」
「……ゲイでもいいけど、写真は撮らないから」

心の底から驚いたらしい菊が、「ええっ?違いますよ!」とめずらしく大声を出した。


 

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