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 「あら。おはよう」

ひょい、と玄関から首を出すと、なまえの部屋の前でルートヴィッヒが固まっていた。指がドアベルを押したままになっている。

「……なぜ隣に……?」
「朝ごはん食べてたから」
「えっ」
「菊も一緒。あと、あなたのお兄さんもいる」

昨夜の事情を説明すると、彼はそこでようやく気がついたようにベルから指を離した。耳が赤いのは見なかったふりをして、部屋の中に向かって声をかける。奥から聞こえたギルベルトの気のない返事に、ルートヴィッヒが生真面目すぎる表情を全開にして「世話をかけてすまない」と云った。このところ、こんなふうに眉の下がった顔ばかり見ている気がする。

「苦労しますよね。兄がいい歳してプー太郎だと」
「我々はプー太郎ではありません。ソシオパスです!」
「おい、俺は違うぞ。俺は結構社交的だからマジで」

ルートヴィッヒは奥から出てきたマシューにも、まるで保護者のように律儀に礼をのべていた。どちらが兄だか分からない。

「いえいえ、僕のほうが楽しかったですよ。バイルシュミットさんも、いつでも遊びに来てください。一緒にゾンビ映画見ましょう」
「ルートヴィッヒでいい。……ゾンビ映画?」


 *


 近くの本屋に寄って帰るというルートヴィッヒに、菊が珍しく自分から同行したがったため、必然的になまえも出かけることになった。ずいぶんと行動的になったものの、彼が自力でフラットまで戻れるかどうかは別である。

「フランシスの家で読んだけどよー、色々ぶっとびすぎだろ。2部の機械軍人のとこは笑えたけど」
「お目が高いお友達です。どこまで読みました?」
「3部の最初らへん」
「ああ、その先がいよいよ面白いんですよ」

菊とギルベルトは着くやいなやコミックコーナーに直行し、何やら談義を始めている。「ひとまず5部まで読んで」と熱弁する義兄は心なしか輝いて見えた。ルートヴィッヒも同じことを思ったらしく感慨深そうにふたりを眺めていたが、おもむろに「菊は日本で何をしているんだ?」と聞いてきたので、なまえは曖昧に首をふった。

「仕事は家でしてるらしいから、自由業だと思う。よく知らないけど。日本にいたら冗談じゃなく、年に2回くらいしか外出しないらしいし」
「なぜ2回?」
「さあ。大事なイベントでもあるんじゃないの」

特にあてもなく新刊のコーナーを物色していると、早々に目的の本の会計をすませたルートヴィッヒが戻ってきた。何を買ったのか尋ねると、彼は手短に「人間関係の本」とだけ答えた。そうしてなまえの手の中を見て、首を傾げた。

「『不動産の投資のしくみ』……」
「あ、ちがうの。べつに興味なんてないけど」

ただ見てただけ、と答えて本を戻す。きょとんとした表情でこちらを見る青い目にいたたまれなくなり、なまえは「そういえばね」とあわてて口を開いた。

「大家さんの息子さん、近い将来に管理を引き継ぐみたいでフラットを建て替えたいんですって。もうかなり古いし、今の時代エレベーターがないのは不便だって」
「確かに高齢者にとっては大変だろうな」
「うん。それで、全体的に改装するって話になってるの。お金があればすぐにでもって感じだったけど」

ちょうどそのとき、後ろを通る男性に通路をあけようと、ルートヴィッヒがなまえに肩をよせた。思いのほか距離が縮まって半身が触れてしまい、気がついてすぐに離れたものの、同時に「ごめん」と謝ったふたつの声がせまい店内にこだました。

「……リア充爆発しろ」
「菊、その分かんない日本語やめて」


 

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