buch | ナノ


 「それで、ほんとにお弟子さんになっちゃったの?」
「……改めて話すと、すごく間抜けに聞こえるわ」

廊下で久々にマシューと会った。彼の大学での成績はなかなか優秀らしく、ドイツで取るべき単位のほうも順調だという。財布を落として泣いていたあの青年とは思えない。

「よう、マティアス坊や。またパンケーキ食わせろ」
「どうぞ。いつでも歓迎しますよ」
「マジか!んじゃ、今日は俺も泊まるから」
「絶対だめ」

本日もちゃっかりフラットにいるギルベルトは口をへの字に曲げ、「ひとりもふたりも変わんねえだろ」などと暴言を吐いた。バカもほどほどにしろと云いたい。ただでさえどう頑張っても家族には見えない男(義兄だから当然だが)を泊めているのだ。大家に一応説明したとはいえ、外聞が悪くなってはたまらない。

「じゃあ、うちで寝ます?明日は学校も休みだし」

「狭いソファでよければ」とふんわり微笑むマシューが、なまえには天使に見えた。癒し系とはまさに彼のことである。ついでにマシューのジャパニーズ・コミック好きが発覚し、彼の強い希望で菊も一緒に泊まることになった。夜通しアニメを見るのだそうで、あまり興味のないなまえは誘いを辞退した。

 心優しきメープルの御使いは「よければ朝食は食べにきて」と告げて去って行った。終末の日は近い。


 *


 「どうしたの。一体」

そうして翌朝である。

「……どうしたもこうしたもないですよ。これはリアルに妖怪のせいなんですか?そもそもドイツに妖怪はいるんですか……?」
「ちょっと何云ってるか分かんない」

久々にゆっくり湯につかって眠り、気分よく隣へお邪魔してみれば、沈みきった表情の菊が出迎えてくれた。パンケーキの甘い匂いと、ラジオから流れるケイティ・ペリーに合わせてマシューが鼻歌を歌っている。ギルベルトはコーヒーを片手にテレビを見ていた。まったく爽やかな朝だ――義兄をのぞけば。

「こいつ、夜中に寝ぼけて『ギルベルト君、あっちの壁から手が出てますう!』とかって騒いでたんだぜ」
「最後『ニコスの鉄仮面』とか見てましたからねえ」
「DVDにはゾンビ映画って書いてるわよ」

菊は青白い顔で「ここ、明らかに何かいます……」と呟いていたが、焼き上げられたパンケーキの皿が目の前に置かれるころには、幸せそうな顔で黙々と頬張っていた。相変わらず食に対しては貪欲のようだ。そして、ジェマイマおばさんは偉大である。

「古い物件だからな。ずっと昔にゃ住んでたかもしれねえぞ。痴話喧嘩で片手切り落とされた末に死んだ浮気男とかさ」

ギルベルトがふざけて恐ろしいことを云ったが、部屋に住む張本人であるマシューは「アルなら大家さんを訴えるって云いそうだなあ」と大層のんきにしていた。のんきついでに、彼のお皿はメープルシロップで洪水が起きかけていた。

「僕はぜんぜん分からなかったけど。弟さん、住んでたときに何か云ってました?」
「あいつ苦手だもん。その手の非科学的な話」
「あんなお強そうな方にも怖いものがあるんですね……」

さも意外そうな菊の隣で、なまえは少し微笑んでしまった。正確には、笑ってしまった自分をごまかそうとして反射的にしかめっ面を作ったため、かなり妙な表情になった。一瞬、目が合ったマシューが不思議そうに首をかしげたので、なまえは彼がシロップをかけすぎていることを指摘した。


 

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