buch | ナノ


 このところ、義兄は毎日のように出かけているらしい。巣ごもりのアナグマ状態から一転、今ではすっかりカメラ片手に観光などを楽しんでいるようだ。これは喜ばしいことなのだろう、と思いたい。

「おかえりなさい。今日のお夕飯は鶏肉の照り焼きですよ」
「ちゃんとビール買って来たか?」

このすでに何度目か分からない、帰宅すると目に入るギルベルトになまえはもはやつっこまない。「ドイツのお豆腐は固いんですねえ。お餅みたい」などとはしゃいでいる菊へ、力なくビールの入った袋を渡した。

「おいしそうだけど、すごい量ですね。食べきれる? ……ていうか、オモチって何?」
「ぜんぜん食えるだろ。俺腹減ってるし超余裕」
「ルートヴィッヒさんもいらっしゃるかと思って、作りすぎてしまって」

反射的に眉根がよったが、知らないふりをする。当たり前のように食卓につくギルベルトは、はやくもビールを飲みながら食べはじめていた。まるでマナー教室の手本のように綺麗なナイフさばきで、肉を切り分けている。菊は夕食をきっちり摂る生活に慣れており、彼が来てからというもの夜の食卓は温かで見目美しい。なまえも自炊はするが、どちらかといえば簡単な料理が多いから、菊の作る食事で体重が増えやしないかとこのところ危惧している。

「今日は、ギルベルト君とブランデンブルグ門を見て、それから戦勝記念塔も見ました」
「ふーん。よかったですね」
「最近おまえ、機嫌悪いよな。生理中?」
「食事中」
「あと、ギルベルト君に弟子入りを志願しました」

鶏肉を頬張りながら、ソースのレシピを聞いておこうかな、と考えていた矢先の言葉だった。なまえはビールを吹き出しそうになった。

「……なに云ってんの?」
「そして許可した」
「しないでよ!勝手に何やってるわけ?」

びっと並んで親指を上げる変人ふたりに、ナイフを投げかけて思いとどまる。

「あのねえ、絶対あなた騙されてるから。この人、立派な犯罪者なんですからね。彼のせいで私、ひどい目にあってるんだから」
「犯罪って……何してるんですか?」
「電子の海を泳いで他人の闇を暴いてる」
「か、かっこいい」
「かっこよくない!」

菊が友だちを作って滞在を楽しむのは結構だ。しかし、よりにもよってなぜ。ギルベルトがどういう目的で義兄を手なずけているのか分からないが、変なことに巻き込むわけにはいかない。菊は外国人だし、何より、愛する人の息子の身に何かあれば母が確実になまえを半殺しにするだろうから。

「小鳥のようにかっこいいだろ。なにイライラしてんだ」
「イライラなんかしてない」
「じゃ、なんだ。嫉妬してんのか」
「バッカじゃないの?」

意味が分からない。脱力して椅子に深くかけると、思い切りビールをあおる。変人に歯向かっても疲弊するだけなのだ。そして夜に大声を出すと近所迷惑になるので、なまえは考えるのをやめた。疲れきった頭をのっそりと起こして、もぐもぐと豆腐サラダを咀嚼する。悔しいかな、たいへん美味しかった。

「あの、なまえさん」
「……なあに」
「ちょっとさっきの感じで、『あんたバカ?』って云ってみてください。一回でいいですから」
「理由は分からないけど絶対やだ」


 

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