buch | ナノ


 飲みに来て帰るにはずいぶん早かったが、なまえは久々の外出に疲れたであろう義兄を口実に席を立った。ルートヴィッヒたちと一緒にいた時間は、賞味1時間もなかったはずだ。あまり話らしい話をしないまま、というより、何を話したのだかよく覚えていない。酔っぱらっていたせいではなく、気が散って仕方なかったせいだ。

「おまえさ、いつまでドイツにいんの?」
「ええと、予定は今のところ……」
「――答えなくていいわよ。それじゃあ、おやすみ!」

文句をたれるギルベルトに釘を刺して、菊を引きずるように店を出た。どこか所在なさげなルートヴィッヒが、彼の兄の後ろで手を挙げているのが見えたが、なまえはそれに対して自分も軽く手を振っただけだった。


 *


 「なまえさん、もしかして何か怒ってます?」

石畳の路地を家に向かって歩いている途中、ちょうど教会のあたりで、ずっと黙っていた菊が静かにそう問うた。なまえは「怒ってません」と返事をしたが、その声はどう聞いても不機嫌そうに響いた。

「ちょっと飲みすぎたかも。胃が疲れた気がするだけ」
「ほんとうに?」
「本当」

子供っぽい態度だ。自分でもそれが分かっていて嫌になる。

「そうですか。帰ったら胃薬あげますね」

よく効くんですよ、ちょっと苦いんですけど、などと穏やかに告げる菊のほうへ勢いよく振り向くと、なまえは仏頂面を隠すこともなく「ありがとう、菊」と云った。どう好意的にとらえても感謝を告げるような声色ではなかったが、とにかくそのぶっきらぼうな言葉に菊はまた、ぽかんとしていた。

「……ツンデレいただきました」
「いま日本語で何か云った?」
「いいえ何も」

どういうわけだか俯いて笑みをこらえているような義兄から距離をとると、なまえはまた前を向いて歩きはじめた。背後から小さく、どういたしまして、という呟きが聞こえた。しん、と暗い夜だ。石畳につまずかないように、街灯の光の下をなぞってゆく。いつだったかここを同じように歩いたことがあるのを思い出し、尚更胃がむかむかするようだった。

「ギルベルトと、何を話してたの?」

菊は一瞬間を置いてから、「あー」と間延びしたような声をあげた。

「なんだか色々なことを聞かれた気がするんですが、正直なところ、彼すごいスピードで話すもんで、ほとんど分かりませんでした」
「……あっそう」
「でも、とても楽しかったです」

人見知りなりに頑張ったのだろう。バイルシュミット兄弟の義兄に対する印象はおおむね良いようだった。彼は基本的には真面目で礼儀正しいので、ルートヴィッヒとは気が合うかもしれない。とりわけ、ギルベルトはこの義兄を気に入ったようだ。変人同士、惹かれ合う部分があるのだろうか。

「あんな、中二病の夢を具現化したような人物がこの目の前に現れるなんて……。感動しました。写真撮ってもらえばよかった」
「チュウニビョウってなに?」


 

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