buch | ナノ


 いやな展開だ、と直感的に思った。

「相変わらずまぬけな顔面してやがんな」

菊の隣席にどっかり座ると、「おーい。見えてんだろ、無視すんなよ」とギルベルトが掌をひらひらさせた。なまえは、いかにも鬱陶しそうに顔を背け、今しがた刺された頬を撫でながら云った。

「……見ての通り、食事中なんだけど。飲みに来たなら別の席行ってくださいよ」
「空いてねえんだもん。今日混んでんのな」

「いいよな?」と隣に向かってギルベルトが振ったが、菊はきょとんとした表情で彼を見上げるばかりだ。見るからに怪しい男が突然登場しては無理もない。――それにしても、どうしていつも絶妙のタイミングで現れるのだろう?

「おまえ、こいつの連れ?日本人?」
「この人と喋らなくていいから。あなたも話しかけないで」
「何だよおい、ご挨拶だな。……あ、こっちこっち!」

どうやら彼にも同伴者がいたらしい。視界の隅にやたらと体格のいい人影が映った瞬間、なまえは自分の直感が正しかったことを悟った。頭上から覚えのある声が降ってきたが、それは今いちばん聞きたくない声だった。

「勝手に先に入らないでくれ。どこへ消えたかと思ったぞ」

呆れたような困ったような顔をしたルートヴィッヒが立っていた。


 *


 ぎこちない笑みで硬直する菊、そして一方的にペラペラと捲し立てるギルベルトをぼんやり見ながら、挨拶もそこそこに、なまえとルートヴィッヒはビールを飲んでいた。

「……一回りは年上だと聞いたが?」
「そう。あれは詐欺よね」

ひいき目に見ても10代にしか見えない義兄の姿に、ルートヴィッヒが頷く。今日は講義の帰りなのか普段着だが、いつもの巨大な鞄は持ち歩いていないようだ。

「毎日変なジャージ姿でインターネットしてるか、テレビ見てる。作ってくれるごはんは美味しいけど、たまに変なこと呟くし、なに考えてるか分からないんですよ。あの人、私にぬいぐるみ買ってきたんですよ。黄色いやつ。『なにこれ』って聞いたら、果物の妖精だって」

彼の父親である義父にもそういうところがあって、なまえに頬が赤い黒熊のぬいぐるみを買ってきたことがあった。ほんの1年前の話である。

「しかし、結果的にうまくやっているみたいだな」
「そんなふうに見える?」
「仲がよさそうだな、とは」

一体どこを見てそう感じたのだろう。彼なりのジョークというわけでもなさそうだった。菊が未だにホテルではなく、なまえの家のソファで寝ていると告げたときには少し怪訝な顔をされたが、彼はそれ以上は何も云わなかった。まだあまり飲んでいないせいか、疲れているのか、ルートヴィッヒの口数は少なかった。

「そういえば、こっちに何か用事でもあったの?」

何気なく口にした質問に、ルートヴィッヒがこちらを見た。久方ぶりの青い目を見つめ返す間もなく、向かいに座るギルベルトがプレッツェルを指して「食っていい?」と尋ねてきたので、なまえは黙って皿を差し出した。

「ほら、だってここ、あなたの家から遠いでしょう」
「ああ……うん。いや、まあ」

珍しく歯切れの悪い言葉だ。あまり触れてほしくない話題なのか、となまえはすぐに詮索するのをやめたが、ふたりの会話は出会って間もなくのころのように、ちっとも弾まないままだった。


 

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