薄暗く、奥行きのある店のさらに奥まった席で、なまえは菊が黙々と料理を食べるのを眺めた。店内は、仕事帰りや夕食代わりに飲みにやってきた人々で賑わっている。
「見かけによらず、食い意地はってるわよね……」
「そうですか?」
だって美味しいですし、と云う菊は、外出を渋っていたわりには楽しそうに店内を見渡しながらビールを飲んでいる。痩せっぽちの子供のような外見のくせ、食べることには貪欲だ。一人暮らしが長いせいか、はたまた好きでやっているのか、悔しいかな家事全般はなまえよりもずいぶん得意なようで、彼が作る謎の日本料理もとても美味しかった(それでいて、なまえがオートミールを電子レンジで温めただけのものを出したときになぜだかえらく感動していたから、グルメではないのかもしれない)。
「なまえさんは、よくこの店へ?」
壁にかかったリュートをちらりと見上げて、菊が尋ねた。先ほどテーブルの近くを通った店員が、それを指差して「イタリア人の兄ちゃんは?」となまえに声をかけたのを見ていたのだろう。なまえは「あれはね」と頷いた。
「ずっと前にここへ来たとき、友達が弾いたら盛り上がっちゃって」
「それはもしや、この前の……?」
菊は途端、眉間のあたりをむずむずさせて微妙な顔をした。なまえは首を振った。
「正確にはあの人の友達で、今はローマに住んでる人」
「もう会わないんですか」
「たまにメールはしてるけど」
「あの、そうではなくて」
菊はあの日、帰宅したなまえと顔を合わせている。それどころか生活を共にしている。こちらの様子から状況を大体理解しているようだが、今日までそれを話題にすることはなかった。ひょっとしなくとも、彼が何かしらの責任を感じているらしいことは分かっていた。その必要はないとなまえがわざわざ口に出さなかったのは、そんなふうに年相応な気遣いを見せる義兄を腹立たしく、また微笑ましく思ったせいだ。
「あの日のことは、」
と、なまえは言葉を切った。
「あなたのせいじゃない。そもそもデートですらなかったし、私も空港に遅刻したことは謝った。そうでしょ?」
「それは、まあ」
「だからもうその話は終わり」
どん、と机にジョッキを置いてきっぱりそう告げる。菊はほんの少し眉根を下げたあとで感心するように、「なまえさんは何というか、男前ですね」と云った。
「オトコマエ?」
「えーと、そうですね……ニュアンスが難しいのですが」
「どういう意味なの」
「え、ちょっと待ってください」
口をへの字に曲げた菊は、上着のポケットに入れたスマートフォンを取り出そうとした。正直なところ意味などどうでもよかったのだが、あたふたとしている義兄がどこか面白かったので、なまえはそのままビールを飲みながら答えを待っていた。
ふいに、肩を叩かれて振り向いたのと同時に、無骨な指先が思いきりなまえの頬に刺さった。