buch | ナノ


 「あ、おかえりなさい。早いですね」

ディスプレイに向けられていた恐ろしいほどの無表情が、お行儀よく微笑んだ。主人の帰りを待っていた犬みたいだとなまえは思う。犬を飼ったことはないけれど。

「ご気分は」
「……ちょっといい」
「みかん食べます?」
「食べます」

鞄とコートを寝室に置いて戻ると、湯気のたつマグとサツマ・マンダリンがテーブルに鎮座していた。見渡すリビングは以前よりも心なしか整頓されており、ソファにかけられたリネンが清潔な匂いをさせている。文句の余地がない。ただ、何かが間違っている気がしてならない。

「ねえ」

オレンジ色の皮をむきながら声をかけると、違和感の正体であるジャージ姿の日本人男性が「はい?」と顔を上げた。

「こっちに来てからそうやってずっと私の家にいるけど、そのことについてあなたがどう思ってるのか聞いてもいい?」

菊は、真っ黒な瞳をぱちくりと見開いた。それから小さな頭を下げた。

「厚かましくご好意に甘えてしまい、実にすみません」
「……理解できないふりして、都合よく解釈するのやめて」

 あれから数日が経過して、どういうわけだか義兄はなまえの家に居着いている。それどころか、今ではちゃっかり自分の作り上げた快適空間の中にのうのうと収まっていた。慣れない異国で極度の人見知りとはいえ、ルートヴィッヒでなくとも「それはどうか」と云われてしかるべき現状である。淹れたての緑茶を一口飲んで、うまい具合に懐柔されたものだとなまえは思った。借りてきた猫のように大人しく、善意の化身のような頑是ない顔をしているくせ、本田菊はなかなかに狡猾で強かな男だったのである。母はむしろこの状況を喜んでさえいるようだから、まったく、いかれているとしか思えない。

「引きこもりのプロである私に、ひとりで外へ出ろと云うんですか? 幼児並みのドイツ語も話せないこの私に?」
「なに誇らしげに云ってんですか。いい歳のくせして」

謙遜するわりに、きれいな発音の英語だ。こういった応酬がだんだん流暢になっている気がするのは、彼がテレビドラマばかり見ているせいだろうか。

「べつに今更、出て行けなんて云ってない。私はただ、せっかくだし観光でもしてくればって勧めてるだけ」
「なまえさん案内してくれます?」
「うちの母なら喜んで飛んで来ると思うけど」
「もれなく父もついてくるので遠慮します」

菊は微笑んで目をそらしたが、横顔からはありありと苦々しさが滲んでいた。菊は父親とはあまり仲が良いほうではないらしく、彼に用事ではるばる来たくせに、面会を渋っているのは明らかだった。

「まあ、人のこと云えた立場じゃないけど……」

彼とは世間とずれた親を持つという点においては、お互いにこの上ない同志なのである(ある意味ではそこをつけこまれて、やむなくこの居候を受け入れるはめになったと云えなくもないのだが)。唇を歪めた小さなつぶやきに首を傾げる菊に向かって、なまえは「負けた」というように軽く手を挙げた。

「夜は外に食べに行きましょう。お酒は飲めるんでしょ」


 

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